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郷土の先人・先覚66・農事、産業に尽力。適正小作料は全国の模範に

本間光勇(明治7-昭和18年)

本間光勇氏の写真

本間光勇といっても今では知る人も少ないが、戦前までは彼の名を知らない人はなく、ことに白馬に乗ってさっそうといなか道を東奔西走する姿を見ない人はいなかった。彼のトレードマークの黒いあごひげと乗馬姿は、実は乾田馬耕の指導者として福岡からやってきた伊佐治八郎をまねしたものらしく、谷地田稲荷神社にある彼の乗馬姿の肖像と、下日枝神社にある伊佐治八郎のそれとは瓜二つである。

そういえば彼の農業政策や小作農対策は、本家の本間光美の考えをそのまま受け継いでいるようにもみえる。ことに地主と小作の共存共栄を図り、適正小作料を策定するため飽海共栄組合を作ったことなどによく表れている。もともと本間家には、農地は農民の数代、数百年に及ぶ血と汗によって作られたものであり単なる土地ではない、との認識があったらしく、小作民を決して搾取の対象としてだけではみていなかった。

この点は、一部の不在地主が農地を占有し、日本国家のとして大きな欠陥であり、恥ずかしいこととして自作農創設法の制定に努力した戦前の革新官僚・石黒忠篤と通じるものがある。そのため明治末の最盛期には3000町歩もあった農地が、終戦による農地解放のさいには1700町歩まで減っていたし、農地解放にも率先して協力した。このことはマークゲインをはじめ、日本の農学者も等しく認めている。

光勇は光美の次弟光訓の長男として谷地田(酒田市)に生まれ、片町にあった本間子弟の私塾、庸行家塾で池田悌三郎について漢籍を学んだ。日清・日露の戦役に従軍、明治40年には西荒瀬村長、同44年県会議員、その後飽海郡農会長、山形県農会長を歴任した。同43年には飽海郡耕地整理組合を組織で組合副長となり、以来、20数年にわたって心血を注いだ。また本間家宗家の農政担当を本間元也とともに勤め農民運動対策に知謀をしぼった。

大正13年に起きた稀代の事件「わら真綿事件」で飽海農民組合は本間家に多額の借金を背負い、大打撃を受けたが、これなど光勇の遠謀深慮によるものと思われる。

彼は楠正成の「非理法権天」をもじり「米稲土人天」をモットーとし、農聖と称された。

故・前田巌氏は、光勇を徳としており、彼の碑が昭和18年に刻まれたまま、戦後のどさくさにまぎれて、建てられないのを遺憾として、谷地田稲荷神社境内に建立した。

本間市長時代、長く収入役をつとめた本間光三は光勇の実弟である。

(筆者・田村寛三 氏/1988年8月掲載)
※原稿中の地名や年などは紙面掲載当時のものです。

プロフィール

本間 光勇 (ほんま・こうゆう)

本間家6代光美の次弟、光訓の長男。明治7年1月3日酒田市谷地田に生まれた。日清・日露両戦に従軍し、明治40年に旧西荒瀬村長、44年に県会議員。その後、飽海郡農会長、山形県農会長など農業関係団体の役員をつとめて、昭和7年有終会の常務理事になった。この間に飽海郡耕地整理組合を結成(明治43年)して組合副長に、また本間宗家の農政を担当、農事、産業に尽力。適正小作料は全国の模範となった。昭和18年1月15日に死去、享年70歳。

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