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郷土の先人・先覚70・「釣艇夕照図」などで名声博す

加藤 雪窓(明治5-大正7年)

加藤雪窓氏の写真

雪窓は加藤家12代目として、明治5年12月25日秋田に誕生し、名は達也、字を聞郷(ぶんきょう)、雅号を雪窓の外蔵鷺軒(ぞうろけん)と号した。

初代は三河国に生まれ、下野国(しもづけのくに)に移住し、佐竹義宣侯に仕え、知行400石を領していたが、関ケ原の戦後、侯の転封に従い、秋田に転住している。3歳の時、漢学者の父・久道に死別し、11歳で母も失い、祖父・至鈴により育てられ、漢籍句読を学んだ。また10歳にして画を狩野派の小室秀俊に、書を大越関石に学んだ。

祖父・至鈴は秋田藩町奉行として仕えていたが、孫・達也の才能を高く評価し、明治16年一切を捨て、名匠大家の師を求めて諸国の名勝地を絵筆に収めながら上京し、途中上州で堀口藍園を訪ね漢詩文を学んだ。22年歴遊の帰路、酒田に来て安祥寺内敬楽寺に奇寓していたが、翌々年心のより所であった祖父にも死別。21歳で安祥寺内正伝寺・佐々木鳳隆師の長女千代勢を娶り、酒田に永住する事になった。

当時、鶴岡の文豪・高山樗牛氏が、父の公職のため正伝寺に奇寓しており、千代勢をめぐりいろいろロマンスがあったと聞いている。

26年酒田が全盛を誇った時代の山王祭の祭礼図を、畳4畳くらいの懸額として下日枝神社に奉納し、昭和38年市文化財に指定され、現在は奥拝殿に飾られている。また、「林和靖(りんかせい)放鶴図」六曲屏風も文化財になっている。

29年単身上京し、橋本雅邦画伯の内弟子として入門を許され、口授を受け画風も一変した。同年開催された日本絵画協会第1回共進会に出品して以来、受賞した作品数は一等賞7回、二等賞1回、三等賞3回、銅賞1回の褒状がある。

特に32年の日本画会創立記念美術展覧会に出品した「釣艇夕照図」「擔薪読書図」は、東宮殿下と宮内省お買い上げの栄誉を賜り、いっそうの名声を博した。当時の日本画は中国の歴史上の人物を画題とした制作が多く、雅邦、芳崖、大観、春草、観山、広業らもそうであった。

34年ごろ酒田の友人達と南紀山陽九州と旅し、黄檗宗(おうばくしゅう)大道場の広寿山で紫石禅師(しせきぜんじ)と親交し、また本山萬福寺に参禅もしている。庄内地方に黄檗関係の書画が多いのはそのためである。

41年、師・橋本雅邦翁即世するや、飄然と酒田に帰り、今町に住宅を求め画室に大改造して画業に励み、また荘内文学会や尚友会を組織し、書画の鑑賞を楽しんだ。

雪窓の知友は文人、風流人でよく酒を愛し、相馬屋、香梅咲、今咲屋に足を運び、また伊藤邸庭園(清亀園)に遊び、詩を吟じ、世評を論じ、時に鼓を打って舞い盃を交わした模様である。

しかし、大正7年11月突然猩紅熱に感染し、わずか47歳で一生を閉じたのである。昭和8年公会堂で盛大に遺作展覧会を開き、翌年海向寺に「雲窓画伯碑」として記念碑が建てられた。選文は須田古龍、碑書は竹内淇州である。

(筆者・加藤一郎 氏/1988年8月掲載)
※原稿中の地名や年などは紙面掲載当時のものです。

プロフィール

加藤 雪窓 (かとう・せっそう)

画家。秋田県の本荘に生まれ、早くから絵画が好きで有志のバックアップで上京、橋本雅邦に入門して技を磨き、明治22年酒田に戻った。禅的作品が多く描かれ黄檗宗の高僧・紫石禅師とも交際し、秀作「擔薪読書図」と「釣艇夕照図」は宮内省に買い上げされた。酒田の漢学者・須田古龍とも親交があって詩文をたしなみ、大正7年11月22日、47歳で死去した。

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