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郷土の先人・先覚71・女子教育に情熱注ぐ

小川 宮子(文政7-明治33年)

小川宮子女史は、文政7(1824)年江戸の旗本の家に生まれた。女史が酒田に来られたいきさつは、宮野浦の藤治郎という方が真から女史の学識人格に感動し、女史に同道を懇請して教えをうけることを乞うたのである。

女史は宮野浦で、まず、私塾を開き、その後、明治7年8月酒田県宮野浦学校の教師に登用された。翌8年4月、酒田で最初の女学校であった操松学校が開校したので、同年11月同校教師(三等授業生)に迎えられた。

女史は、男紋付を着用し、自分で模様を画き入れた半襟をつけ、縞の高袴、切髪といった容姿をし、まったくの男装であったという。

学識については、漢籍に通じたばかりでなく、能筆家で書画のたしなみあり、女生徒の半襟模様を画いてくれたといい、生花、点茶、弾琴から裁縫、料理に至るまで家政の細大、所作礼法に厳しかったし、そのうえ、毎夜のように庭に出ては1人で剣術を研究していた稀にみる女丈夫であった。

明治9年6月7日、大久保利通内務卿が鶴岡視察、また同年9月20日、三條実美太政大臣が鶴岡朝暘学校開校式に参列のおり、女史が女生徒を引率して赴き、授業を参観していただき、好評を得たといわれ、女史が女子教育に最も情熱を注がれていたころと思われる。

明治12年5月琢成学校が開校、11月酒田中学校が併設されたので、操松学校は廃校になり女子は、同月10日山形師範学校教授に栄転発令され、ほどなくして酒田を離れられた。女史が山形に迎えられたのは、三島通庸県令の女子教育について女史に期待するところが大きかったからであろう。

三島県令が満腔の信頼をもって、娘3人を託され、酒田のときのように仕込み遠慮なく言葉、行儀などを直してくれと頼まれたのをみても、女史は決して学識のみでなく、いかに徳育の人であったかを知るに充分であり、女教師の率先者、また、女子教育に尽くされた偉大な功績者である。

(筆者・深田良克 氏/1988年8月掲載)
※原稿中の地名や年などは紙面掲載当時のものです。

プロフィール

小川 宮子 (おがわ・みやこ)

女史は、文政7(1824)年江戸の旗本の家に生まれる。御殿医であった夫希道氏は維新後間もなく死去、長男は別居しており、家庭的には恵まれなかった。48歳の明治5年宮野浦から招へいされ、私塾を開いて村民から敬慕された。同7年8月宮野浦学校教師を経て、翌8年11月酒田で最初の女学校であった操松学校教師に迎えられ女子教育に尽くした。酒田では、本町一丁目二番地にあった深田治三郎宅に奇寓し、希望者には夜学を開いた。同12年11月から15年3月までの間、山形県師範学校教授となる。その後、同17年2月まで屋代(高畠町)小学校訓導奉職。女史は三島県令が栃木県令に転任と同時に、同県に転出して私塾を開き、男児の漢文、剣道を学ぶものも増えて一時は100余名をみる盛況であった。同33年8月10日、77歳の生涯を閉じた。

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