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郷土の先人・先覚73・奇才・将棋は名人級、プロ8段破る

竹内 丑松(明治10-昭和22年)

竹内丑松氏の写真

大正7年のこと、朝日新聞社主催で、酒田の竹内淇州7段(当時41歳)井上義雄将棋8段が対局し、淇州が平手で二番とも勝ち、8段に昇進した。おそらく三番勝負だったと思われる。今でもプロとアマの力の違いは大きいとされているが、当時のこととてこれは破天荒であり、一躍、彼の名は棋界に知られるようになった。どうして地方のアマが専門の最高棋士に勝つことができたのか不思議である。

しかし、調べてみるとこの謎は次第に解けてくる。つまり淇州の祖父・伊右ヱ門は鶴岡の長坂六之助6段について将棋を習い、3段を許されている。淇州は幼少の頃からこの祖父から手ほどきを受けた。そして、同家には東京、大阪から専門棋士が訪れては長逗留していたのだから、まるで専門棋士に内弟子入りしていたようなもの。特に淇州と名人・関根金次郎とは仲がおく、度々同家を訪れている。

祖父以来の天賦の才能に、こうして磨きをかけたのだから当然といえば当然である。同家はまるで将棋道場のようだった。そのため、ここから多くの英才が育ち、酒田将棋界は天下にその名を鳴り響かせた。土岐田勝弘アマ7段はその雄なるものであろう。

淇州は将棋だけでなく碁も強く、県下第一番の腕と評された。囲碁を通じて犬養毅、頭山満、古島一雄ら一流の人物と交わった。剣道にも関心が高く、夏季には屋敷内に道場を設け、中央から高野佐三郎、菅原融(とうる)ら一流の名剣士をよんで振興に努めた。竹内道場として有名であり、当時、酒商剣道部が振ったのも淇州のたまものである。

淇州は明治10年、米屋町の素封家で質屋をしていた竹内伊蔵の長男として生まれ、若いころから書及び漢学を修めた。書は清朝の王仁爵の風を学び、楷書は中国人の如しと評された。てんこくは小沢仲丙(碧童)に習った。漢詩は須田古龍に負う所が大きかった。現在、市内の旧家や料亭には彼の書が残されているが、読解に苦労するものが多い。稜々たる奇骨の持ち主である彼は、わざと一字か二字を読めないように書いたという説もある。雑誌「木鐸」誌上で論陣を張ったり、政治家としても20年余にわたって町会議員を勤めている。

有名な良寛和尚が少年時代に漢学を学んだ大森子陽は安永6年に鶴岡に来遊し、ここで塾を開きこの地で没した。この時、子陽は竹内家から妻をもらい、一子"宗晋"をもうけたというが、のちに離婚している。このことは竹内家に子陽宛の儒者達の書簡集があったかことから確認された。思うに別れる際、子陽が記念に与えたものであろう。

(筆者・田村寛三 氏/1988年8月掲載)
※原稿中の地名や年などは紙面掲載当時のものです。

プロフィール

竹内 丑松 (たけうち・うしまつ)

明治10年6月26日、酒田・米屋町の生まれ。書や漢詩を修め、将棋は抜群。名人・関根金次郎と親交を深め、大正7年井上義雄8段を破って8段に昇進。このほか、政治、文学、囲碁、投網など趣味は幅広く、ことに囲碁も県下でナンバーワンといわれた。有名棋士を自宅に招き、また屋敷内に道場を設けて剣道の振興をはかった。明治37から20年間余、酒田町会議員、雑誌「木鐸」も発行。昭和22年3月24日、71歳で死去。雅号は淇州。

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