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郷土の先人・先覚85 旧松山町の基礎作る。漢学、詩文にも造詣深く

土方恕平(文久3-大正8年)

土方恕平氏の写真

地方政治家として名を知られた土方恕平は、庄内松山藩の家老・土方翁右衛門(達信)の二男として松山町北町(現・酒田市)に生まれた。本名を達質という。

土方家の始祖・嘉右衛門(政直)は、正保4(1647)年、酒井忠勝の三男忠恒が、庄内から分封となって松山酒井家を創始したときの初代家老、以来本家の嘉右衛門と、分家の翁右衛門がほぼ交代する形で家老職を世襲してきた。明治2(1869)年、父が死亡したとき恕平は幼かったので、叔父の達正が家督を相続し、同10(1877)年になって恕平がその後を継いだのである。

恕平は幼少のころ藩の徂徠学を修めたが、明治初年東京に出て法律を学び、かたわら旧幕臣の中根香亭や漢詩人として名高い大沼枕山のもとで詩文章を学んだ。

帰郷して松嶺の町会議員に推されたのが明治14(1881)年、ときに21歳であった。次いで郡会議員に推されて後、議長に就任し、明治24(1891)年から同28(1895)年まで県会議員を務めた。翌年、松嶺町長・小華和業修から頼まれて助役に迎えられ、31(1898)年に町長となったが、翌年辞任、さらに大正3(1914)年から同5年まで再び町長を務めている。

この間、憲政党(後の政友会)系の飽海有恒会を設立して、自ら会長を引き受け、在職すること30年余、歯に衣着せぬ雄弁家として談論風発、美髯(びぜん)をたくわえていたので「恕平のヒゲラッパ」と言われたという。傍ら私立松山正心学校、飽海電灯会社、松嶺信用組合、水利組合などの運営に当たったほか、両羽新報の発刊にも関与、在任中は最上川治水事業の推進、官有林払い下げ、造林事業の実施、育英事業の強化、酒田築港、陸羽西線、羽越線の建設等飽海郡全域にわたる開発に努力を重ねた。

また、彼が漢学や詩文に造詣が深かったことは人の良く知るところで、暇があれば和漢の書を集めてこれらを精読、柳外(のち松北)と号して、幼いころに教えを受けた中根香亭や、文人としても名のあった、後の総理大臣・犬養毅ら著名な人々と深い交わりを結んでいる。

長い政治生活を通じて節義を曲げない硬骨漢として知られたが、その身辺の清潔さに人々は一目を置いたと伝えられる。彼を松山町の生みの親とするのも故なしとはしない。没後の大正9年、松山地区の中山神社境内に「松北土方翁碑」が建立された。

(筆者・秋保親英 氏/1988年9月掲載)
※原稿中の地名や年などは紙面掲載当時のものです。

プロフィール

土方 恕平 (ひじかた・じょへい)

自治功労者。文久元年8月29日庄内松山藩の旧家に生まれ、幼いころから漢詩文を学んで東京に遊学した。早くより政治に志し、帰郷して21歳のとき松嶺の町会議員、以来郡会議員、県会議員などを歴任。博学多識で地方行政や地元教育に力を尽くし、広く信望を集めて大正の初めまで松嶺町長に推されること2度、松山町(現在の酒田市松山地区)の基礎を作った。大正8年6月14日数え59歳で病没し、郷里の真学寺に埋葬された。

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