そこであらためて「地域の再生・活性化とは何か」ということを考えてみます。まずこれまでのような意味での経済発展への態度ということから考えますと、20世紀型の第二次産業革命をさらに発展させることは全く不可能で、無意味であります。環境破壊、自然破壊につながるだけです。人口減少は不可避ですから、郊外型の大量消費にも未来はありません。食糧やエネルギーの供給が今後も円滑に進むという保証はない。むしろ、進まない保証の方がほぼ確実にあります。中国やインドが大量の食糧やエネルギーを消費するようになったとき、私たちはどの程度の分け前をもらうことができるだろうか、そう考えると、私たちは自分たちが持っている食糧資源やエネルギー資源を有効に使い、それを開発して自給をするということを目指さなくてはならないでしょう。つまり、森林とか川とか海の資源にもう一度注目する必要があります。
聞くところによれば、今の日本人は「もったいない」という言葉を持っている非常に数少ない民族であるそうです。しかし、その日本人が毎日食べ残して捨てている食糧の量は世界一なんだそうです。だいたい3食のうち1食分が無駄になっています。供給されるカロリーの総量に対して消費されるカロリーの総量は4分の3に過ぎない、4分の1は捨てられている。これをお金に換算しますと11兆円くらいになるそうです。11兆円は現在の日本の農業総生産高を上回っています。自動車産業の生産高に匹敵します。あるいは観光の総売り上げに匹敵するのです。これだけの規模のものを無駄に捨てているのに、「賞味期限をごまかしているのはけしからん、きちんと捨てなさい」と言うと、もっと無駄の程度は増える可能性もあります。どうしたらいいのか悩ましいところです。でも、外に頼るわけにはいかないとすれば、無駄を省き、自給を図ることを長期的な目標にするのは悪いことではなかろうと思います。
私たちは、次の世代に残していけるような自然と経済の仕組みを、何としてもつくらなくてはいけません。おれたちが死んだ後の子供のことなんか知るか、後は野となれ山となれだ、というわけにはいかないと思います。今後もさまざまな形で国からの支援はあり、それぞれの地域がそれに期待していると思いますが、何を支援してもらうかが重要です。
ことわざに言われる例がありますが、「魚を支援してもらうか、魚を捕る網を支援してもらうか」では、網の方がいいということです。つまりそういうタイプの支援を求めるべきであって、公共事業のようなものに頼ってとにかく生き延びようというのでは先がないと思います。じゃあ、経済とか産業化は一切だめか、というとそんなことは全くありません。第三次産業革命に関連した産業の発展は可能であるし、必要です。とりわけ、これから非常に大きな経済分野になると思われるのが「デジタルの財」です。ゲームのアイテムであるとか、ソフトウエアとか、そういったものを生産し、販売する。これは生産するためのエネルギーとか土地はあまり必要ありません。自分の頭や時間さえあれば作り出せます。そうしたものを結構なお金で売ることができるようになれば、好ましいことです。この部分の経済発展の可能性は非常に高いと言えます。
もう一つは、これまでのような意味での富のゲームを続ける、つまり、どんどん蓄積し、成長し、発展し、大きくなっていこうとするのではなく、現在の程度でいいから何とかこれを維持していくとか、あるレベルで止めてこれを長続きさせるということを考えていくことが必要です。アル・ケッチァーノに毎日毎日観光バスが今年は1台乗り付け、来年は2台乗り付ける、というような話ではなくて、観光バスはいらないんです。料理に感動して東京からでも札幌からでもやってきて、「月に1回は食べたいね」という人が1000人なり、1万人なりいれば十分やっていけるのです。私はだだちゃ豆が好きでお中元ではだだちゃ豆を送ります。そういう人を一つの農家が100人確保したら、それだけでそこのだだちゃ豆は全部売れる。そんなネットワークができている限りは、農家はそれなりに安心して自分の生活を営んでいくことができます。先日、市長さんに教えていただいたんですが、コシヒカリが1俵9万円で売れるそうです。誰でもがそんな値段で買うはずはありませんが、日本の米はうまいと知ったシンガポールのお金持ちとか中国の成功者を一つの農家が10人なり20人なり見つけ、信用と親愛の関係を作ってビジネスをやっていけば、何も巨大な工場を構えていく必要はないのです。
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