似たような悲劇を描いた作品では『上意改まる』がある。この作品の舞台は海坂藩ではなく、荘内の隣の藩、最上戸沢藩である。戸沢藩の家老、片岡理兵衛は「直情径行、悪く言えば塑像なほどに我を張る性格」の男であって、藩中に敵が多くいる。隣の家の当主とも、相手の性格が気に入らないという理由から、妻子は無論、若党・婢に至るまで口をきいてはならぬと命ずる頑固さである。そういう性格が災いして、藩主にも激しく憎まれてしまう。理兵衛自身は、自分のやることは間違ってはいないと信じ込んでいるので、藩主といえども楯突き、我を通そうとするのである。権力に屈しないこと、逆らうことに爽快な気分を味わい、身内の人々の諫言にも耳を貸さない。結局、代々家老を勤めた片岡の家この理兵衛の偏屈のために滅びてしまうのである。ここにもカタムチョ人間の悲劇があますところなく語られている。破滅型人間ということになるだろうか。
しかし、考えてみると、カタムチョは誰の中にも潜んでいるものなのである。生きているうちに、きっと「こだわり」を持つものができ、妥協を許さない、自分なりの信念が生じる。年を取るとともにそれが二つ、三つと積み重なり、若い者の目には頑固・偏屈に見える傾向となってくる。ある意味でカタムチョは年寄りの宝物、生きてきた証でもある。どの世界にも1人か2人、何となく煙たい人がいて、軽々しい行動をすると小言を言われるのではないかと怖れたものだが、今はそういう雰囲気が消えつつある。若い人を叱る年寄りもいなくなり、カタムチョが死語になったと同様、そういう人も絶えた、ということだろうか。
また、藤沢さんはカタムチョを「荘内農民の気質」だと述べているが、それはどういう意味だろうか。長い歴史の中で圧迫されてきた農民が、たとえば一揆なのでエネルギーを爆発させ、その後一層締めつけられたり、破滅に追い込まれたりを繰り返してきた。「油断するな、踊らされるぞ」と戒めながら生きてきた農民の血が流れている、というのだろうか。流行に振り回されまい、という自己防衛の本能をそんな形で分析しているのがとても興味深い。