藤沢周平さんの作品の主人公は、そのほとんどが名もない、財力も、権力もない、そんな人たちである。「海坂藩」ものでいえば、100石以下の微禄の家に生まれた人が主人公になっている。それも二、三男という、将来に不安を抱く人間が多い。長男以外は人扱いされなかった「家」制度の中で、この主人公たちが生きるための道を探すところに色々なドラマが生じる。『蝉しぐれ』の主人公・牧文四郎の家などは30石以下で、彼は普請組の組屋敷に暮らしている。苦しい家計をやりくりしながら武家のしきたりを守ってゆく家族の―特に女性の苦労が書かれている作品も多い。『木綿触れ』には、初めて絹の着物を作ることができて、袖を通す日を楽しみにしている若妻が登場する。つつましく暮らしながらようやく手に入れた絹の着物だったのに、たった一度袖を通しただけで死に追いやられた女の悲劇が描かれている。このような下級武士やその家族の人生の哀歓を語るのが、「海坂藩」ものの主旋律である。
そんな中で、長編小説『風の果て』はやや趣を異にしている。主人公は桑山又左衛門といって、現在は筆頭家老であり、執政として辣腕をふるう男である。もともとは130石上村家の二男坊として生まれ、道場や塾に通いながら、あてのない未来に不安を抱いて暮らす少年だったが、桑山孫助と出会い、桑山家に婿入りした後に運が開ける。郡奉行から郡代に進み、藩主に信頼されて執政の仲間入りをする。ついには筆頭家老となって、権力を握ってしまった1人の男の物語―それが『風の果て』である。
「権力を握った男(2)」へ続く