すでに脚本は書かれてあるのに、現場に立ち、せりふや小道具や衣装などがどんどん換えられることがある。その場に及んでそぐわない、違和感がある、似合わない、何となくしっくりゆかないとか、理由はいろいろだ。
せりふまわしも決まっているところに、不自然さが目立ったり、言いにくかったり、迫力がなかったりすると書き換えられた。1本の映画は少しずつ加えられて立体化されてゆくのだ。だからロケ地では撮ったあとも、翌日の準備に余念がなかった。
各担当者は監督の意を受けて事前の段取りに入るが、天候に左右されるところが多く、外がだめならば屋内。それもエキストラなどの動員に合わせ、総合組み合わせが刻々と変わっていった。1枚の地図を広げ、山登りをしているようなものである。
どこでテントを張り、どっちの方向性をとるか、時に応じて決めてゆく。
人と人との共同作業であるばかりでなく、何から何まで手作りであるのが、最大の特色だった。
「機械があるとすればカメラのレールぐらいかな。今どきこんなのありませんよね」
山田組の組長はそう言いつつ、そのスタイルが性に合っているようで、想像力を働かせるのがたまらなく好きらしい。
カメラにひっつき、全体をとらえ、しかもどんな小さな動作にも目を配る。洞雲院での撮影時だった。
「おかしいよ。もう一度やってごらん。立ってくるりと向きを変える。どうぞと促すようにね」
ぎこちなかったり、動きに無理があるのを指摘して、着物姿のひざのつき方のタイミングや脚本の中に指示がないところを、丁寧におさらいするかのようにやり直しが続いた。頑固で意固地でうっとうしい「おんつぁま」片桐勘兵衛の説教に閉口する兄や夫を見かね、寺の庫裡の方へ
「お酒の用意してあっさげ」
と、誘うところだ。志乃は主人公、片桐宗蔵の妹である。田畑智子さんが演じる明るくって、くったくなく、すっかり武家の御新造になりきった、よく機転のきく賢さは寅さんシリーズでさくらの役だった。妹が所帯をもったのに、兄が定まらない。不安定の要因を抱えた一家のアンバランスを操って支え合う設定が、監督の家族構成では落ち着きが良いらしい。
母親の3回忌を迎えた法事の場面は、縁者が集まり、老人たちはどこの誰なのか分からなくなっている。
久しぶりで顔を合わせるせいでもあった。
「おめえ誰だ」
と、姪に聞くおんつぁまをなだめ、うまく収める気働きの役を志乃はしゃきしゃきこなす。
そこで監督は
「おめえ、いい女だな」
といった老人の目線をさりげなく交わし、いざこざを明るく忘れさす緩和剤の役を、妹の出番にあてた。もめごとや争いが始まりそうになると、こうやって空気をガラリと変えようとする介在者が1人はいるものだ。
そして、それをきっかけに一座はほぐれ、もとの和やかさに戻る。多数の縁者が集まると、1度や2度、誰もが経験することであった。