庄内ロケが始まって間もなく、強い日差しが当たると明るみかけていた桜が1輪、2輪と咲き始めた。例年よりも1週間ばかり早い開花である。
厚い雲に覆われた風は冷たいのに、季節は早春から急に春へと移り変わっていった。
まるで空の模様を巻き尺で測るように正確にとらえ、フィルムの中するすると収めてゆくのを見ていると、時間が定かでなくなってしまう。考えてみれば、撮っている現場は200年前の江戸時代なのである。しかも明治維新が起きようとする前兆をはらんでおり、現代からみればおかしなことがいっぱいある。
言葉や動作はもちろん、格好や人と人とのやりとりがやがて新しい時代を呼ぶ軍隊の誕生につながるのだ。雪をかぶる月山へ響く大砲の音を見守る農民たちも、みんな地元のエキストラだった。
いつかどこかでこんな光景を見たような気がして、つい映像に流れる時間と目の前を通り過ぎゆく時が奇妙に一致し、何とも不可思議な気分になった。
「ハイ、ヨーウイ」
監督の声がかかるたび、きびきびと出演者たちは動き、河川敷で大砲の撃ち方が試される大掛かりなシーンを撮った。準備を整えたはずの予定が狂い、失敗をする場面である。予想外の失態が起きる手はずが前もって仕掛けられており、わざわざマトはずれなタネをあらかじめつくっておくわけである。
時代考証もしかり、どうやればホンモノ成り行きに近づけるか、映画は積算の連続で撮られていた。場面は一瞬にして変わろうとも、物語の筋道にはすべて過去が尾をひいた形で現れなければならない。観客が寸刻の間に納得するように、未来への不安さえも用意しておく。
もし、同時代に生きておれば、こんなふうに全体への目配りができるだろうか。現実よりも生々しく、タネも仕掛けもある架空の時間を充足することができるだろうか。映画に魅了される理由が分かった。
松たか子さんが
「女優業はいつもウソを演じているけど…本当の自分でありたい」
と言っているのを聞き、なるほど気持ちの在り方としては役に没頭し、つくりものの時間を生きている自分を冷静に眺めているもう1人の自分がいるのだろう。つきっきりでロケ現場に入り込んでいる人間さえ、怪しく取り込んでしまう非現実とは、何なのかと思う。
「芝居をしないでね。自然体でゆきましょう」
繰り返し、繰り返し言われる監督の言葉通り、方言も日常用語であるがごとく使いこなし
「せばのう」
などと、さりげなく言い交わしている。また微妙に訛る所やアクセントも修得していった。さすがにプロの領域である。
船着き場で友を見送る主人公、片桐宗蔵(永瀬正敏)の冒頭のセリフは
「江戸がぁ…、遠いのう」
で始まる。何とも言えないお国訛りがあって江戸までの距離感、感慨、未知への思いが寄せられ、この一言で荘内藩の位置関係が察しられた。永瀬さんは役づくりにあたって山崎誠助さんに荘内藩士の心構えを聞いたそうである。すると劇作家の山崎さんは
「冬の吹雪に向かってゆく態度ですね」
その姿勢ができれば荘内藩士たる役どころがつとまる、と教示したそうである。