あめ雪、ぼたん雪と、日本海沿岸では根雪になる前の水っぽい雪が傘の上へ重くのしかかってくる。ぞくぞく降り注ぐ様子はたちまち周りを雪景色に変えてしまい、冬が群がり降りてくるような感じになった。映画の中に出てくる宗蔵(永瀬正敏)と、きえ(松たか子)が3年ぶりで出会うシーンである。
「あれはうまく撮れましたね」
と、言うと
「庄内の雪の降り方をビデオに撮り、研究したのですよ。どうすればいい感じになるかをね」
と、山田洋次監督は大きいぼたん雪がとめどなく落ちてくるのを見て、庄内の冬らしさを出すため、雪の重量感を映像に取り入れた。
「傘を支えるのに力がいったと思いますよ」
監督助手の平松恵美子さんが心配するほど、永瀬さんの差す傘は重かったそうである。監督は
「ぼくは大陸(旧満州)で育ったので、雪遊びは知らないんですよ。あっちはもう凍りますからね」
凍結する冬しか知らない少年時代でも、冬の遊びに事欠かなかった。
「でも、昔の子供たちは思い切り遊んだでしょ」
頭も心も空っぽになるぐらい遊びに入れ込み、夢中になり、さんざん遊び尽くして何も残らないようだが、遊びほうけた気持ちが充足して
「何かこう、後ろめたいような満足感ってありましたよねぇ。ああいう経験って今の子供たちには無くなりましたね。パソコンいじって得られるもんじゃないですよ」
機械人間になることを恐れる監督は人間性を豊かにする感性とか、知らず知らずに培われた情緒とかを映像の中で大事にした。柔らかく細やかに降る冬のにおいのようなものをつけるため工夫を重ね、現実へ照らし合わせて、降り方を研究した。わずかのシーンだが時間をかけ
「何度もやり直しをしましたけど、うまくゆきましたね」
平松恵美子さんはOKが出るまでチェックをして、自然の威力に近づけ、まったく見分けがつかないぐらい演出に走り回った。あと苦労したのは
「油商である伊勢屋の店先ですよね」
と、平松さんは振り返った。詳しい資料や文献の類がなく、働いている人たちの格好や配置や、たたずまいが分からない。
「おそらく過剰労働でみなが疲れきっており、それでも日々の仕事にいそしんでいる姿を出したい」
と、いう監督の意向を汲み、着物、立ち居振る舞い、言葉を検証していった。週休2日制の現代とは違う労働条件と人間関係は封建制といった時代背景の中で、成立している雇用制度だった。そこで働く労働者の顔はどうだったのか。
わずか200年と経たないうちに機械文明は猛スピードで発達し、人間の意識を置き去りにしていった部分もあり、どうやら今でも追いつけないところがある。労使の関係は時間を売ったり、買ったりする契約に変わり、責任とか、義務を含む質の問題が希薄になった。
「この国の人は誰も責任を取らなくなりましたね。どうしたことでしょ」
監督はそうぼやきつつ、人間の意識の変革を200年の時間を通し、追求していった。目いっぱい野原で遊んでいた子供たちには、自然の
「草いきれのような匂(にお)いがついてましたよね」
自然と人間の共存、そこに生まれた意識を丁寧に撮ってゆく。