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郷土の先人・先覚107 博物教育に多くの功績

中村 正雄(慶応3-昭和18年)

中村正雄氏の写真

現在の理科教育を明治時代の言葉に言い換えれば“博物”であった。中村正雄は当時の博物教育に多くの影響を与え、そのころの先生並びに学生たちに深い印象を残していることは、素晴らしい業績があったからであろう。中村正雄については、大瀬欽也氏の著書『庄内人名辞典』に記されており、これを頼りに『鶴岡南高八十年史』元県立博物館長であった結城嘉美氏の『不ろら(フロラ)山形』、若松多八郎氏の『鶴岡の植物』などにも記載されている。これらの記録に頼る以外に小生のような昭和生まれの人間には何ひとつ知る由もなかった人物だったのである。

中村正雄は庄内藩士の父・中村喜太郎正有、母・絃(げん)の5男2女の長男として、慶応3年11月20日、鶴岡市馬場町に生まれた。現在の鶴岡南高等学校の前身、西田川郡中学校を卒業、山形公立中学崇広小学校に受業生として勤務した。その後、鶴岡に帰り、西田川郡朝暘学校授業生へ、明治22年7月に庄内私立中学校に奉職した。

この時、私立英学会を設立し、校務の傍ら余暇をもって率先して英語の授業を行った5人の先生の1人で、学生達は我先にと先生の講義を聴き、日を追う毎に盛況を極めた。これがやがて中学校再興の端緒となった。

明治30年7月生理科教員免許状を受け、翌年1月山形県米沢興譲館中学校に奉職。この時、植物分類学者・牧野富太郎氏は、中村正雄より初めて「ヒメサユリ」を教えられたとある。同33年には新潟県立長岡中学校教諭となり、翌年2月文部省中等学校検定試験植物学科に合格、免許状を受ける。

そのころ、鶴岡に植物学者で有名な松森胤保翁がいた。また、同じ庄内私立中学校には長沢利英氏の在職しており、理化学を教えていた。中村正雄にはその大先輩の影響もあった。

明治37年、日露開戦中に「新潟県天産誌」を編集企画、そして新潟県博物調査会委員を命じられ、「新潟県博物調査会会誌」採集目録を発表した。大正2年新潟県立柏崎中学校植物授業嘱託、その間、『越後産鳥類目録』、『原色昆虫図譜』、『キノコ図』、『蘭譜植物図譜』などを著した。

大正12年2月宇都宮高等農林学校講師となり、同14年2月『新潟県天産誌』を出版され、当時の専門分類学舎の同定を得た不滅のモノグラフとして、高く評価され、9年の歳月で完成刊行したものだった。このほか、雑誌『植物趣味』8巻に連載された「楽之堂漫筆」がある。

(筆者・阿蘇 和夫 氏/1988年12月掲載)
※原稿中の地名や年などは紙面掲載当時のものです。

プロフィール

中村 正雄 (なかむら・まさお)

博物学者。慶応3年11月20日、鶴岡市馬場町に生まれ、苗秀学校に学び、当時、鶴岡町宝町にいた松森胤保氏の指導を受け、後年、中村正雄の博物誌に大きな影響を与えた。西田川郡中学校を卒業、品行方正、学術勉励賞を受け、書籍3冊を頂いた記録がある。明治22年7月私立庄内中学校の嘱託、同26年9月最初の著書『荘内植物』3巻を刊行。同30年7月生理科教員免許状を受け、翌年1月山形県米沢尋常中学興譲館教諭となり、同33年7月新潟県長岡中学校教諭、翌年2月に博物植物科の免許状を受ける。同40年新潟県博物調査会委員、『新潟県博物調査会誌』採集目録、同43年8月『越後産軟体動物目録』を発表。大正2年4月新潟県立柏崎中学校嘱託、同12年2月宇都宮高等農林学校講師。昭和5年4月、64歳で同校を退職し、同校図書館主事となる。その間、『新潟県天産誌』を発刊した。昭和18年1月11日に死去。享年77歳。

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