大達は嘉永6(1853)年12月15日鶴岡市播磨、農業、諏訪儀右エ門の二男に生まれ、名前を弁治といった。
明治6、7年ごろ東京に出て、朝日獄鶴之助に弟子入りし、大楯と名乗った。一時番付に出たが、脱走して越後の新発田辺を放浪しているうち、同11年高砂浦五郎一行が巡業に来たのに会い、師弟の約束を結び巡業に加わって東京に帰った。同12年6月、本所回向院での場所は東幕下18枚目に付け出され、次の場所は東方幕下8枚目(十両格)となり、4場所十両格におり、15年6月西前頭7枚目に新入幕した。
4場所後、場所が終わった明治17年3月10日、芝延遼館において明治天皇の天覧相撲が行われ、取り組み終了後、天皇のお好みで前頭3枚目の大達羽左エ門とこの年2月に横綱免許された初代目で15人目の横綱・梅ケ谷藤太郎の一番勝負があった。
この勝負は立ち上がるやガップリ左四つとなり、梅ケ谷は右に上手回しを引いたが、一枚であったので、さらに一枚回しを引こうとするのを大達が嫌って腰を引いたので届かない。そこで互いに30分程土俵の中央で勝負が付かず水が入り、その後の相撲も水を入れて取り組ませたが、やがて力士の顔色が変わってきたため引き分けた。
この勝負は大達の土俵を語るには欠くことができない一番であり、また相撲史上でも永久に残る名勝負である。
この年5月西方小結、7日目に無敵の横綱梅ケ谷、8日目小結剱山、9日目関脇大鳴門を破り、8勝1引分1休の成績を上げた。
この星をあげたので大達は大関との予想を裏切って関脇格張出しに、2敗の西ノ梅(のち16代横綱)が大関になり、番付発表の1月2日、憤慨して師匠高砂にその理非を迫った。
高砂は「お前はいつでも大関になれるのだから、こんどは我慢しろ」となだめたが、血気の大達はいきなり鉄拳を高砂の頭上に加え怒った高砂は隣室から日本刀を持ち出し、大達に迫った。彼は逃げ出して伊勢ノ海部屋に身を寄せ、高砂から破門された。
2場所関脇、同19年1月西方大関昇進。同20年師匠高砂より破門を許され伊勢ノ海一門となった。大関6場所のうち2場所は病気のため全休、次第に番付が下がり、同28年西前頭5枚目を最後に引退、年寄千賀ノ浦を襲名した。
幕内生活14年、彼は生来生一本で徳望なく朝日獄、高砂に問題を起したが、力士としては強く、門人、後輩の面倒を見、明治37年8月17日、享年53歳で没した。
相撲史に残る強剛力士。
播磨京田村(現・鶴岡市)に生まれ、名を弁治という。若いころから大食漢で怪力の持ち主。大山に婿入りしたが、相撲好きで家業をみず離縁された。東京に出て郷土出身の大関・朝日獄之助(由良出身)に入門。大楯を名乗り番付に乗るが行いが悪く破門。その後、高砂浦五郎に入門。心を入れかえ稽古(けいこ)に励む。明治天皇の天覧相撲で強豪横綱梅ケ谷と引き分け、その後、59連勝中の梅ケ谷を破り大関となる。