西田川郡温海町(現・鶴岡市)の湯温海温泉街に、山号温泉山、寺号を長徳寺と称する曹洞宗の寺院がある。この寺の石段をのぼりきると本堂前に至るが、その右手には約2メートルもある花崗岩の珍しい石造の涅槃(ねはん)像(釈迦入滅の姿)が安置されており、石段を挟んで反対側には、孝子慶玉の碑が建立されている。
碑の正面には、背中に柄杓(ひしゃく)と笠を背負い、2本の杖を手にした慶玉の盲目姿と、側面に孝行を尽くした事柄が細かく刻まれている。碑の建立は天保10(1839)年で、苔の生えた相当古い碑である。
慶玉は早田村(現・鶴岡市温海地区)の百姓・茂助の一人息子として正徳2(1712)年に生まれている。貧乏な家庭に育ったが、性格が素直で孝行な子供であったといわれ、これについては面白い逸話が残っている。
ある時、用事をいいつけられ、母からは道路が乾いているので草履で行くように言われ、父からは雨が降ると困るから下駄の方がよいと言われたので、片方に草履をもう片方に下駄をはいて行ったという。
だが、不幸にも享保14(1729)年、18歳のときに重い眼病を患い、ついに失明した。それに両親は次第に年を取り農業も思うようにいかなくなったので、前に覚えた縄ない、草履、草鞋(わらじ)などを作って家計を助け、盲目ながら両親の助けとなって働いたという。
次に慶玉の孝養について2つの話を記してみる。ある冬のこと、父が病気のとき小鯛を食べたいというので探したが、折悪く時化(しけ)でなかなか手に入らない。方々歩いているうちに3里ばかり離れた村でやっと手に入れた。喜んで帰る途中、藁苞(わらづと)に入れた小鯛がいつの間にか落ちてなくなっていた。驚いた慶玉は雪道を引き返し、手探りで探し続けてやっと拾ったという。こうした慶玉の孝行を神様が救ったのだろう。
父が亡くなったのは慶玉27歳の時で、その後は母を一心に養いながら暮らしていたが、ある日母がアワビを食べたいというので、親を思う一心から海に入り、アワビをとって岩に上がろうとした時、大ダコに襲われ大勢の漁師に救われた。母は慶玉の孝行に涙を流してアワビを食べたという。
慶玉29歳の元文5(1740)年、藩から盲目でありながら孝養抜群として、米30俵を下賜されたが、慶玉はこれでかねてよりの念願だった半鐘を寺に奉納した。これが今に伝わる孝子鐘である。
母が亡くなった後は、毎年新しい柄杓を100本ずつ各地の清泉に奉納して母の冥福を祈っている。天明5(1785)年11月、74歳で亡くなった。
正徳2(1712)年、温海町早田の農家に生まれ、一人息子。幼少のころから親孝行で18歳のときに重い眼病にかかって失明した。それでも縄ない、草履、草鞋などを作って働き、貧しい家計を助けた。盲目の身でありながら親孝行ぶりは他の模範であるとして、藩から米30俵を贈られ、それで宿願の半鐘を寺に奉納した。母の死後、冥福を祈って毎年新しい柄杓100本を道端の清水に奉納などした。天明5(1785)年11月28日、74歳で死去した。