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郷土の先人・先覚151 4年がかり十六羅漢像

大法寛海(享和元-明治4年)

十六羅漢岩の写真

遊佐町吹浦海岸の波打ち際の巨岩に十六羅漢が刻まれている。このように自然の岩や洞窟の壁面に彫られた仏像を磨崖仏(まがいぶつ)と呼んでいる。野外の壁面に彫りつけること自体原始的な手法であり、大陸的な影響を強く伝えている。そのため、一般の石造物の中でも先行した形で現れ、造立の流れも早く姿を消している。

主に人里離れた山間へき地にあるが、これは山岳信仰を中心とした密教の影響が強いためとみられている。ところが吹浦の十六羅漢のように海岸に、しかも日本海の荒波をまともに受ける岩肌に彫られた磨崖仏は全国でも大変珍しいといわれている。この十六羅漢を作った人は、大法寛海という和尚さんである。

寛海は享和元(1801)年、酒田の旧荒瀬町で桶屋を営む石川小助家に生まれ、長じて正徳寺の孤山泰嶺に弟子入り、正徳寺で受戒得度(仏門に入り、僧が守らなければならない戒めを授かること)をしている。その後、亀ケ崎の峰鷲院四世となり大法寛海と称し、やがて吹浦の海禅寺二十一世の住職となっているが、寛海が十六羅漢を発願した動機について次のようにいわれている。

ひとつは潮流の関係で羅漢岩付近に死体が漂着するので、その霊を供養するためといわれ、また一説には、明治維新を前にして神仏分離の風潮がとみに高まってきたので、鳥海山の神道に対抗して仏道振興のために造立したともいわれている。

寛海は作仏発願以来、酒田および近郷近在を托鉢して喜捨を仰ぎ、2両くらいを求めると一仏を刻し、高瀬や酒田などの石工(いしく)たちを督励して彫刻したのが十六羅漢で、元治元(1864)年から明治元(1868)年までの4年間、心血を注いで完成させている。

そこで羅漢のことを簡単に記してみると「羅漢とは阿羅漢(あらかん)の略で仏の命を受け、長くこの世に留まって仏法を守護する賓頭盧尊者(びんずるそんじゃ)以下16人の尊者を指している」。

彫られているのは正面に釈迦三尊(中央に釈迦如来、左に普賢菩薩、右に文殊菩薩)それに十六羅漢、他に仏像3基の計22基というが、今では日本海の荒波に浸食され、全部を数えることが不可能で、自然の力と時の流れが感じられる。

亡くなったのが明治4(1871)年で、『改定遊佐の歴史』には「-寛海和尚は生涯恵まれず、何を思ったか雪の降る夜、海禅寺を抜け出し庭の白雪に足跡を残したまま海に投じ、姿を現さなかった。時に明治4年、71歳であった-」と、寛海の最後の模様を記しており、入水の動機は寛海が畢生(ひっせい)をかけた十六羅漢のみが知ることであろう。

(筆者・荘司 芳雄 氏/1989年6月掲載)
※原稿中の地名や年などは紙面掲載当時のものです。

プロフィール

大法 寛海 (たいほう・かんかい)

僧侶。享和元(1801)年に酒田の旧荒瀬町に生まれた。酒田の峰鷲院孤山に弟子入りして峰鷲院四世となり、その後吹浦の海禅寺二十一世住職となった。在職中に吹浦海岸の岩に釈迦三尊、十六羅漢の像の彫刻を発願。高瀬村や酒田の石工を動員して元治元(1864)年に着工、4年がかりで22体を完成させた。費用は酒田の篤志家に喜捨を請うて調達した。

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