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郷土の先人・先覚225 平和の願いを桜花に託す

佐藤伝七(明治27-昭和48年)

酒田市内若竹町の小牧場そばに、昭和57年建立の「平和桜植樹記念碑」がある。碑は多くの桜の苗木を郷土に贈った佐藤伝七を称えている。

佐藤伝七は明治27年7月、喜代治・モトミ夫妻の二男として宮野浦村(現・酒田市)に生まれた。やがて成人して世帯を持ち、大正10年青雲の希望を胸に抱いて上京したが、2年後の関東大震災に遭遇して郷里に帰る。しかし、大志やみがたく再度東京の土を踏んでいる。

その後は庄内人の粘りと不屈の根性で、復興の槌音響く東京で、当時流行の大衆喫茶を開店して支店を出すまでに繁盛し、恵まれた生活が続いた。

そのころから次第に軍事力が台頭、日中事変から太平洋戦争へと戦火が拡大。日一日と敗戦の色が濃くなり、一家もその渦に巻き込まれた。長男の出征、20年4月13日の東京大空襲で全ての財産を失い、郷里・宮野浦に疎開のやむなきに至った。戦争は8月15日に終戦となり、誰もが敗北感を深く味わった。

しかし、佐藤伝七は、それにもめげず、決意を新たにして三度上京したが、長男の戦死と、苦労を共にした妻の死に遭い、悲嘆の涙にくれた。その後、悲しみを乗り越え、人類永遠の平和を祈り、その象徴である桜を郷里に贈り、桜花が爛漫と咲き誇る平和の里にしようと心に固く誓ったという。

贈った桜の苗木は、その数1万4120本、そのうちソメイヨシノ3000本、八重桜75本が酒田に贈られ、そのほか飽海郡内の各町村や鶴岡市をはじめ、田川郡内の町村などにも多くの苗木を贈ったと当時の新聞が報じている。

小牧堤にそって植えられた桜は210本のソメイヨシノというが、現在では成長して、近くにある港南公園の桜とともに見事な花を開き、毎年の花見時には大勢の人たちでにぎわい、酒田の名勝の一つとなっており、先人の残した尊い遺産が大きく開花している。

前述した「平和桜植樹記念碑」は2本の枝を伸ばした桜の木を型どり、小さい枝の上部には、平和を現した直径20センチの玉石を飾り、桜と平和を左右の枝に表現した巧みさと、美しい花崗岩に生かされた素晴らしい造形は、平和桜にぴったりの碑である。

碑の裏面には佐藤伝七の功績と育てた住民の努力を称えた文が刻まれている。昭和48年、80歳で亡くなった。

(筆者・荘司芳雄 氏/1990年8月掲載)
※原稿中の地名や年などは紙面掲載当時のものです。

プロフィール

佐藤伝七(さとう・でんしち)

明治27年、酒田市宮野浦生まれ。戦前、東京で流行の大衆喫茶を経営し大繁盛したが、昭和20年4月の東京大空襲で全ての財産を失った。その後、人類の平和を祈り、桜を郷里に贈った。贈った桜の苗木の数は1万4120本。酒田市の小牧堤に植えられた桜は酒田の名勝の一つにもなっている。昭和48年、80歳で亡くなった。

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