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郷土の先人・先覚235 好角家の理想像、心技ともに模範

朝日嶽鶴之助(天保9-明治14年)

「相撲じゃ陣幕、男じゃ綾瀬、容姿の良いのが朝日嶽…」と俗謡にまでうたわれ、人気のあった朝日嶽鶴之助は、天保9(1838)年、越後国岩船郡田中村(現・村上市山北地区)の農家に生まれ、庄蔵と名付けられたが、幼くして父親を失い、母親の再婚と共に近村の温海村釜谷坂(現・鶴岡市温海地区)の養父先で育っている。その後、近くの由良漁場で働いていた13歳のとき、大舟を引き上げている怪力を庄内藩士に認められ、品川のお台場築きの酒井家人夫に取り立てられた。

それが縁で立田川親方(2代目常山、飽海郡小泉村、現・酒田市八幡地区)に入門、由良の海庄蔵と名乗り、万延2(1861)年庄内藩のお抱え力士として幕下45枚目に付け出されたのが22歳のときである。

その後、文久2(1862)年には朝日嶽鶴之助と改名、慶応3(1867)年11月場所では、幕下筆頭(十両格)で8勝1引き分けの黒星なしで、8勝の中には3日目東方横綱(11代目)、不知火光右衛門(2代目)を破った金星があり、その実力が認められ、翌慶応4年6月に入幕、前頭6枚目に位置している。

それからは幕内力士として実力を発揮、明治10(1877)年12月西方大関に昇進したが、大関在位わずか2場所で病気のため同12(1879)年、ついに土俵を去り、年寄立田川を襲名している。幕内通産では82勝4敗37引き分け6預かりで、勝率6割7分2厘の成績だった。

明治10年大関になった翌年、故郷に錦を飾ったとき、折から滞在中の五条屋(京都の相撲家元)から山形県かぎりの横綱土俵入りを許され、大変人気があったといわれ、のち吉田司家に横綱免許を請願したが、病気のために成らなかった。

朝日嶽は相撲も強かったが、心構えもまた立派な人物といわれ、維新のとき庄内藩が官軍に抗するや、いち早く江戸を脱出して酒井忠篤公のもとに駆けつけ、日ごろの恩顧に報いた美談は有名で、終生恩義を忘れなかったという。

当時の相撲甚句に、「相撲もよく取る 男もよいし 女泣かせの朝日嶽」と唄われたように、惚れ惚れするような美貌と礼節の正しさは、そのころ好角家の理想像で、朝日嶽ブームを巻き起こしたといわれる。死亡は明治14年で享年44歳だった。

(筆者・荘司芳雄 氏/1991年2月掲載)
※原稿中の地名や年などは紙面掲載当時のものです。

プロフィール

朝日嶽鶴之助(あさひだけ・つるのすけ)

力士。越後国岩船郡田中村生まれ。父・長三郎が亡くなったため、母の再婚に伴い温海村へ。温海村で「鱈場おじ」として漁業に従事、13歳の時に大舟を持ち上げた大力を藩の力士に認められ、立田川清五郎(飽海郡出身)に入門する。万延2年2月、由良の海庄蔵の四股名で西幕下45枚目に付け出され、庄内藩お抱え力士に。文久2年3月場所から朝日嶽鶴之助に改め、慶応3年西幕下筆頭(十両格)の時に、東横綱・不知火光右衛門を破る。明治10年12月、西方大関となるが、病気のため2場所で引退、立田川を襲名する。明治14年4月4日、保養先の湯温海越後屋佐々木清右衛門方で亡くなった。44歳。

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