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郷土の先人・先覚300 清廉潔白な実業家「菊勇」の地位築く

長坂弥吉(明治16-昭和24)

酒田酒造界はいうまでもなく、山形県下でも名を成した長坂弥吉は明治6(1873)11月15日、酒田の十王堂町(現在の二番町周辺)で父・弥助、母・民江の長男として生まれており、幼名惣治、のち弥吉を名乗っている。若いころは丁稚奉公に出て苦労を重ねたというが、明治30年下内町(現在の一番町周辺)にかねて念願の菊勇酒造業を創立した。

以来業績が順調に伸び、銘醸菊勇は酒造界に確固たる地位を築いた。これも青年時代辛酸をなめて努力した汗の結晶が実を結んだものである。聞くところによると性格は豪快である半面、面倒見がよく困っている人には手を貸し助けたという。そのため生活面では節約を旨とした清廉潔白な実業家であった。

昭和9(1934)年11月、銘酒菊勇は選ばれて全国名誉賞を授与されており、その芳醇さを称えられている。

こうした酒造界に尽くした功績と公正な人格は人々に敬愛され、多くの役職に名を連ねている。昭和13年以来飽海郡酒造組合長、また日本醸造協会東北支部地方委員は通算32年間、山形県酒造組合連合会最高幹部、酒田酒造協会長など、酒田をはじめ地方業界のトップで活躍している。

その他、酒田商工会議所常議員、酒田裁判所債務調停委員、酒田税務署所得税調査委員、浜田小学校後援会長、PTA会長などの公職、また、正徳寺檀徒総代なども務めた。酒田商工会の振興、教育施設の改善と整備、官庁の調停と調査、仏門の帰依と本堂建設など、枚挙にいとまがないほどである。

菩提寺の正徳寺境内には、昭和18年酒田酒造組合で功績を記念して「長坂弥吉翁表功碑」を建立しており冒頭には次のようにある。「翁資性豪快事ヲ栽スル穏健、職ニ處スルニ私無シ、身ヲ酒造業ニ起シ相率ヰテ進ムヲ栄トス…以下略」

次はエピソードである。琢成第一小学校で酒田最初の学校後援会が発足、年会費60銭で600人が参加した。町長は「琢一小の教育費を少なくしてもよい」と発言したとか、会長の弥吉は憤慨して大反論をしたという正義の人であった。(『浜田百年』)。

没年は昭和24年9月享年77歳であった。

(筆者・荘司芳雄 氏/1993年11月掲載)
※原稿中の地名や年などは紙面掲載当時のものです。

プロフィール

長坂弥吉(ながさか・やきち)

明治16年11月15日生まれ。幼名・惣治。苦労を重ねた末、明治30年に下内町で「菊勇酒造業」を創立する。性格は豪快である半面、涙もろい人情家であったという。業績も順調に進展し、敬愛されると同時に多くの役職を務めるなど、地方業界のトップとして活躍した。昭和29年没、享年77歳。

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