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郷土の先人・先覚5

松平穆堂

松平穆堂氏の写真

1 その生い立ちと書道

黒崎研堂翁の直弟子である穆堂先生は、まだ幼少の頃から所謂「付け紐」の時代から黒崎研堂先生夫妻の近所に住んでいたので、一方ならぬ御世話になり、奥様より付け紐のとれたのを着付けてもらったり可愛がられて育ったようである。山形師範卒から教員となり、直ちに中等教員習字科の免許をとって酒田高女の教員となったが、大正5年書道の蘊奥を究めんとする宿志己み難く教員を退職して中国の青島に渡った。陸軍省山東鉄道雇員に籍をおき、書道の修行に励み、青島守備軍廃庁となったので青島日本高女の教諭となって研鑽十余年の勉学を積んで帰国した。

その後は黒崎研堂翁の志を継体して鶴岡に留まり、鋭意学童子弟の教育に励み、市民の要望に応じて書道の振興に精誠を傾注し、由来庄内は書道を重んずる気風が旺盛な所であったが、ここに新たな書道習練の風が起こり注然として振起したのであった。

2 書道の源流を求めて中国へ

◎大正五年松平穆堂先生を青島に送る次韻(詩)
恩師黒崎研堂先生の送別の詩

  • 仙鶴本有沖霄心。
  • 引領天涯意緒深。
  • 高飛應在青雲上。
  • 付与西風恵徳音。
  • 感君萬里遠遊心。
  • 不厭千山萬水深。
  • 西行曲阜謁孔廟。
  • 應聞講誦絃歌音。
  • 執筆幾年論正心。
  • 交情別恨老愈深。
  • 驪歌欲奏難成曲。
  • 明旦君聞空外音。

簡単に意を訳すれば、
君は生来向上心が高く、鶴のように天涯に飛んで羽ばたいてもらいたい。そして西風にのせて徳音を伝えてくれ。千山万水の深さを究めて勉強し、近くには孔子の曲阜の廟もある、その講義の話や詩等も楽しめることだ。君と今迄書道について話し合って来た心情は、離別となると老人となったので残念である。送別の歌はとても節にならないし、明朝には君の旅立った音を聞くだけとなる、と。

今から約70年前の事である。書道の本流を探して敢然中国に渡らんとする弟子を励まし送り出す恩師の心情を思う時、自ら襟を正させるものがあるようだ。

3 書道の本場中国に於て

次に穆堂先生自作の詩がある。

  • 観勢黄河濁流畔。
  • 探奇泰山巨巌巓。
  • 優遊禹域十年業。
  • 不学人文自然。
  •        穆堂

その意を汲めば
黄河濁流の畔に立ちて天下の動きのすさまじい流れの中に観じ、泰山に登って天地の雄大さに驚嘆し、禹域即ち中国の優遊して十年間修行してきたが、人と文はともかくとして大自然に学ぶことが大であった、と。

4 帰国の船上より

丙寅(大正15年)夏日、11年ぶりに帰国の途に、船で海を渡り遥かに母国を望み感無量となって詩を作った。

  • 十年異域思郷國。
  • 今日帰来天色高。
  • 休咲未知猶知己。
  • 車中人皆是同袍。
  • 丙寅夏日帰國途上穆堂

穆堂先生はこの詩を中国の色紙に書いて、同船のご婦人で鶴岡に帰る方に記念に贈ったのが今発見されたのです。

十年の長い間中国にいて故郷を思いつづけてきたが、今帰って来たら天も空高く澄んで迎えてくれた。皆さん笑わないでよ、初めてお遭いした方々であるがお互いに友人であり同胞なのです、友達になりましょう、と。

この色紙の文字にその喜びがよく表れている。この色紙を頂いた奇縁のご婦人とはその後も親しくお付き合いをしたようです。

穆堂先生は中国で沢山の事を勉強したようですが、特に何紹基の書に就いて深く研究されたということです。

なお、昭和戊辰(昭和3年)秋の先生の書軸の落款に穆堂宋平昭と書き捺印をしてある書を発見した。また水墨画等には「蒼園」と雅号したものもある。

5 松平穆堂の生涯

次の詩は穆堂先生の心境をそのままを歌ったものであるかと思われる。

  • 弊衣茅屋未言非。
  • 諫懶生涯足息機。
  • 落木蕭條秋色老。
  • 青山時有白雲帰。

先生は生涯位階勲等名誉を需めず、金銭の備蓄を好まず金殿玉楼に住むことを嫌い、ただ自然を友とし、学童に書を教え、市民と差別なく交わってこの世を去った。

また

  • 一宝無長物。
  • 終生為酒貧。
  • 花時招雅客。
  • 月夜会文人。

とも詩っている。昭和32年冬の書であり、5年後にこの世を去った。

最後のお勤めは宮内省図書寮事務嘱託となり、2年ののち、昭和16年帰郷し、これから約20年間、鶴岡書道会を中心に大活躍して郷里のために功労を積み重ねた大先生である。

6 穆堂先生の功業

今に残る功績の第一は、学童のために創設された夏季書道練習会である。昭和5年から第一小学校会場で始まった全国に珍しい冠たる歴史のある書道教室である。

次は秋の荘内書道展で約4000名の小・中・高生並びに一般人の書の展覧会である。

鶴岡学童書道の特色はいろいろとあると思うが、半紙の外に大字部といって雅仙紙半切に堂々とした大きな字を書きます。額に汗を流し紙が汚れる程の練習風景は将に壮観である。実に素晴らしい伝統を創り出した偉大な大先生であったと思う。

(筆者・渡部利美 氏/1988年4月掲載)
※原稿中の地名や年などは紙面掲載当時のものです。

プロフィール

松平 穆堂(まつだいら・ぼくどう)

書を通じて人間の陶治を願った庄内書道教育の大家。

本名は末吉。明治17年、塚原権平の子として松ケ岡に生まれ、松平久彰の養子となる。

5年、10年かかるのが普通といわれる文検にわずか1年で合格。抜群の秀才である。明治45年、酒田高女(現・酒田西高)に勤めたが、書道の本流を研究しようと中国に渡り、十年後に帰郷し鶴岡高女(現・鶴岡北高)に勤め、その間、鶴岡書道会を設立し主宰。小中高児童生徒の書道教育に尽力。

書風は、日下部鳴鶴流を黒崎研堂に学び、吉田苞竹と共に黒埼門下の逸材といわれた。古法帖に通じ、楷書、隷書が特に優れていた。

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