文字サイズ変更



  • プリント用表示
  • 通常画面表示

郷土の先人・先覚10

酒井 調良

酒井調良氏の写真

庄内柿の祖と称される酒井調良は、荘内藩主酒井家第2代家次の第5子・了次を祖とし、7代目藩家老・了明の二男として嘉永元年(1848)に生まれた。兄は戊辰戦争の名将了恒(玄蕃)、弟は漢学者として、また書家として高名な黒崎研堂である。

調良は若年のころ、蚕糸業を以て国に尽くそうと決意し、私財を投じて盛産社という製糸会社を創立し、あるいは足踏式製糸機械を創作するなど斯業発展のために奔走尽力したが、明治22年諸情勢を判断して蚕糸業を断念し、果樹栽培に転進した。

同26年になって当時の袖浦村黒森に2町歩の土地を求めて果樹園(後に好菓園と称す)をはじめた。ちょうどそのころ、知人から種の無い渋柿の新種について相談を受け、将来有望と確信して接木を繰り返し増殖をはじめた。同42年には東京帝国大学の原煕農学博士からこの柿に平核無の命名をうけ、また酒樽脱渋法を教授され、勇躍して栽培普及に取り組んだ。長子駒太郎もまた鶴岡の本宅で栽培に専念した。

しかし、酒樽脱渋は失敗が多く、販路の開拓は進展せず、昭和3年になっても庄内地方から主消費地である札幌への出荷量は、22.5キロ入りでわずかに200箱。統計からみても大正時代の苦労の程が偲ばれ、大正に入り養子となって好菓園の経営を担当した守平は、心力を尽くして努力したが、その経営は困難を極め、遂に廃園を決意したことさえあったという。

しかし、大正14年に至り調良指導のもと駒太郎、守平が苦心惨憺の末、出荷容器として木箱と紙袋の組み合わせを創案し、この容器による焼酎脱渋法を確立した。これによって販路は急速に伸展し、昭和30年代には市場出荷量に於いて渋柿の第1位となり、現在では渋柿の全国出荷量8万トンのうち、平核無は5万トンを占めるに至った。そうして全国の主産地もとより佐渡も和歌山も皆、黒森と鶴岡の好菓園から出荷された苗木と穂木にによって形成されたものである。

調良翁は大正14年、摂政宮殿下へ庄内柿を献上し、これが後年の商品名となった。晩年には出荷組織の育成と後進の指導に力を注ぎ、15年10月其の生涯を終えた。荘内神社々頭には昭和51年、全庄内の生産者が全国の青果業界の協賛を得て建置した胸像が、黒森には大正6年庄内三都の有志によって建立された寿碑がある。

この柿を発見して普及し、渋柿の代表品種に発展する基礎を礎いた酒井調良翁。その偉大な功労は、幼時より勉学された東洋の道義が、戊辰従軍をはじめ、産業報国の苦難の中に鍛錬されて偉大なる人格を形成し、これがよく衆力を結集してこの大業を成し得たものと思い、畏敬の念を新にするものである。

(筆者・武山省三 氏/1988年5月掲載)
※原稿中の地名や年などは紙面掲載当時のものです。

プロフィール

酒井 調良 (さかい・ちょうりょう)

庄内柿の父として知られている。

弘化5(1848)年に庄内藩家老酒井了明の二男として生まれた。松ケ岡開墾に参加し、桑栽培で養蚕に励む一方、明治12年、自宅の畑に庄内で初めてリンゴを栽培した。明治26年には西田川郡黒森村(現・酒田市)で農場を経営。新品種"核無柿"を栽培して成功し「調良柿」と呼ばれ、大正の初めごろ「平核無」と命名され、今では庄内柿として広まっている。また、庄内で初めて豚の飼育も手がけた。能書家・黒崎研堂の兄。

トップページへ前のページへもどる
ページの先頭へ

Loading news. please wait...

株式会社 荘内日報社   本社:〒997-0035 山形県鶴岡市馬場町8-29  (私書箱専用〒997-8691) TEL 0235-22-1480
System construction by S-Field