短文芸の中で川柳愛好者は多いが、作句する川柳人は不足であるといわれている。その中で川柳家・荒木星(ほし)の作品は常に一頭地を抜いていた。
星は明治29年、酒田下内匠町の素封家で米問屋を営む荒木家の二男に生まれている。本名が彦治、星はペンネームである。庄内中学から慶応大学に学び、卒業後は家業にたずさわり、主として肥料部の仕事をしていたが、昭和12年、酒田の今町郵便局になっている。
世の中にはさまざまな趣味を持っている人があるが、星のようにもった趣味がどれも群を抜いているのも珍しい。
スポーツでは剣道2段の免許、野球は酒田実業団チームの草分けで名1塁手といわれ、カメラを持てば当時新潟鉄道局のポスターに使用された程の腕前である。ほかに都山流尺八は師匠と並ぶほどで、荒木斗星の名で知られている。
また川柳には乙呂の号で俳句も作句しており、いわゆる器用人である。だが郵便局長となったあとは、川柳一筋に情熱を傾けたようである。
星の実兄で京之助という川柳作家がいた。当時有名な川柳作家・井上剣花坊と親交を結び、将来を嘱望された人で、星がこの兄の影響を受けたかは知る由もないが、素質は兄譲りだったと思われる。
川柳の出発点は戦後で割に遅く、新聞など日々のニュースを題材にした時事川柳からはじめている。だが時事は日がたつにつれて句の意味が次第に薄れるので、本格川柳を求めていった。
当時、関西を本拠に、全国に吟社をもつ「番傘」川柳社に籍を置き、作句に精進した。やがて主幹岸本水府の目にとまり、番傘同人に推薦された。以来多くの佳句をものにして、川柳作家として不動の位置を築いている。次に当時の作品を記してみる。
昭和20年代、「だろう会」と称する古川柳研究グループがあった。由来は古川柳はこうだろうと解釈したところからつけた名称という。それが同27年「酒田川柳会」に発展している。その「だろう会」「酒田川柳会」の中心は星で、指導的や栗をつとめ会の発展に貢献している。
著書の川柳集「零才の笑顔」は"零歳の笑顔が見たい鯉のぼり"からの題で、孫への愛情を零才にかけた秀作である。
その他、荒木京之助・星川柳集「矢ぐるま」が酒田川柳会から発刊されている。昭和36年3月、65歳で亡くなった。
川柳作家。本名・彦治。酒田下内匠町の米問屋の二男。庄内中学、慶応大学を卒業後家業へ。昭和12年、酒田の今町郵便局長。スポーツ、写真、尺八など多くの趣味を持っていたが、郵便局長になってからは川柳に力を入れ、全国組織の「番傘」川柳社の同人。地元の「だろう会」「酒田川柳会」の中心として、指導的役割を果たした。著書に川柳集「零才の笑顔」など。65歳で死去した。