東田川郡新堀村(現・酒田市)出身の齋藤伊左衛門は、東田川郡の農民運動で活躍した闘士の1人であった。しかし、飽海郡の農民運動の指導者である富樫勇太、小島小一郎、庄司柳蔵などと違い、無名に近い指導者であった。
大正2年北平田村の渡部平治郎が義挙団を組織して農民運動を展開した飽海郡と異なり、東田川郡は大正期では、比較的農民運動が遅れていた。大正11年4月に大阪で日本農民組合が創立されると、飽海郡ではそれに呼応して、西荒瀬村の富樫勇太は日農鳥海支部を結成。さらに日農鳥海支部とは別個に、西平田村の小島小一郎が平田耕作組合を、北平田村の庄司柳蔵は漆曽根耕作人組合をそれぞれ大正11年に組織、大正13年には庄内耕作連盟へと発展、活動を進めている。
東田川郡では新堀村大字落野目で、大正11年落野目小作人組合を設立、58人の組合員が組織された。この組合は、南間藤太郎等が指導者となり、大正14年、地主に小作米の軽減要求を行って、翌年争議に入っている。小作・自小作の圧倒的に多いこの地域に、小作人の団結の必要性を痛感した斎藤伊左衛門は大正14年、新堀村大字板戸に小作組合を結成。翌年の大正15年には日本農民組合山形県連合会板戸支部となっている。
伊左衛門を中心に、組合結成以前から本間家などの地主に対して小作料軽減を願い出ていたが、実現できなかった。そのため、伊左衛門は組織の拡大、強化に奔走するようになり、余目町大字平岡の小作人と組み、昭和3年に東田川郡北部連合小作組合を余目に作り、伊左衛門が組合長になった。
伊左衛門は、さらに組織の強化を図るため、昭和4年に北部連合小作組合の組合員60余人を全国農民組合に加入させ、その板戸支部となっている。同5年、谷地町で全国農民組合山形県連合会の第2回大会が開かれた時、伊左衛門は副議長を務めた。
伊左衛門の家は江戸期に板戸村の村役人も務めているが、少々の自作田を持つ場図志井農家であった。伊左衛門は自分よりもっと貧しい小作農民の生活向上のみを考えて運動に入っている。特に地主側の小作田引きあげには激しい抵抗の姿勢を示した。大正15年の小作地引きあげによる大宮での乱闘事件、南口や福岡などでの小作争議にも、伊左衛門は積極的に参加している。
その後、地主側の激しい攻勢と組合員間の不信感によって、伊左衛門の運動は挫折したが、残した足跡は消えるものではなかった。
明治10年新堀村大字板戸において竹蔵・まさえの間に生まれる。幼名は貞吉。斎藤家7代目。気性の激しい一徹な性格で、食事の作法の悪い家族にはいきなり箸が飛んだという。小作将棋を援助したことで、警官から「竹槍を持っているか」と聞かれ、「小作争議は武力でやるものではなく、ただ地主の小作地引きあげに対して無能な小作人が組合を作って対抗しているだけ」と答えている。昭和34年11月、82歳で死去。