明治の中期から昭和の初めにかけて、今の鶴岡市加茂の上仲町に、気難しい漆職人が居た。その人米村米田は、父の技法を継いだ研出蒔絵師であり、その作品には米田銘の落款が記されている。
父・金右エ門(文政10~明治20年)は画才に秀で江戸に出て渡辺崋山の高弟・福田半香に師事し、山水画と共に人物、花鳥なども習得した。この江戸時代に、漆芸のうち古典派とされる研出蒔絵の技法を身につけて帰郷した。
幼い頃から父の教えを受けた米田は、絵画とともにひとかどの研出蒔絵師となった。「羽前国加茂港上仲町・漆細工処・米村多惣治」として、明治32年には、盆、手付盆、会席膳のほか衣服台など550点余が作られ、県下はもとより秋田、輪島にまで販売された。
木地の素地固めから始まる諸工程は、下絵を忠実に表現するため繊細で複雑。各種色粉の蒔きと感想と研ぎの手順を重ね、気の遠くなるような作業であり、土蔵内の仕事場に籠って、ときに時刻を忘却したかのように制作に没頭していた。
絵画の色彩が、黒漆の表面から浮き上がってくるような、優雅な品格を持つ研出蒔絵。さらには高蒔絵を組み合わせて、より高尚な席膳、卓、硯箱、盆、椀、菓子器など数多く、鶴岡、酒田に遺されている。
米田会心の作として、いまに家人に語り継がれているものに、大正天皇御即位に際し、献上品として制作した“卓台”がある。加茂の素封家・秋野茂右エ門の依頼品であった。“卓台”表面の絵は「高砂」で、朝日と青松に配する翁と媼(おうな)の繊細な図柄を巧みに研ぎ出した。同じものが2台つくられ、1台は献上品とし、1台は秋野家用としたといわれるが、残念ながら同家には残っていない。
自らの絵画をいかし、独特の漆器を創りながら、研出蒔絵師を生業としてはなぜか生計がおぼつかないと、4人の男子には技法を継がせず、それぞれの好む道を歩ませる。そして大正9年61歳の米田は絵筆を絶ち、妻と末子を伴って加茂を離れ、東京麻生に居を移した。
港町加茂に育った父子2代にわたる研出蒔絵は、その作品のみが諸家に秘蔵され、昔日を偲ばせている。
父と共に信心深い真宗門徒であった米田は、離郷の前年、菩提寺の浄禅寺全景俯瞰の漆絵額を揮毫し、同寺太子堂に遺した。上京後は郷里の海や山に思いをはせてか「盆景」づくりを始め、指物師であった長男の住む小樽での旅先で病に倒れ、没した。69歳であった。
蒔絵師。本名・多惣治。加茂で父である米村雲外(本名・金右エ門)の技法を継いで研出蒔絵師に。盆、手付盆、会席膳、衣服台などの作品が、県内はもちろん、秋田、輪島など県外にも販売された。鶴岡、酒田にも数多く遺され、山水、花鳥、人物を得意とし、会心の作は加茂の旧家秋野茂右エ門さん宅が、大正天皇即位の祝品として献上した「卓(しょく)」とされている。