桑原さんが大正6年沼田中学3年の時、ロシアに革命が起きて帝政が倒れ、共産主義国家となった。このことに影響された桑原さんは将来外交官となって国家に奉公しようと決心したという。
大正15年4月外務省に入ってみると日本は滅亡の寸前であった。天皇の親政といいながら天皇のご意思を真っ向から蹂躙して大東亜戦争を誘発し敗戦を招いた。
桑原さんは昭和11年11月、日独防共協定の日には太平洋戦争の必至と敗戦を予見し、そのことを外務大臣に建白書で申し上げ、同時に叙勲と官等の昇進を辞退した。そして太平洋戦争の回避と日米交渉の妥結に渾身の努力を傾注。戦争中は内閣直属の総力戦研究所郷関として、各省庁や陸海軍の中堅幹部を薫陶しながら戦争の早期終結工作に苦心した。
太平洋戦争の敗北過程を外交上戦争指導上の実践を通して、つぶさに凝視された桑原さんは、戦後の日本再建は、とても官界から行う事はできないと判断し、民衆の中に分け入って、国家民族の藩政を太平洋戦争敗戦の事実に求めて、その事実を究明教訓化するという国体明徴運動を提唱普及し、日本民族に徹底させるため、戦後直ちに外交官を辞して火を吐くような運動に挺身した。
昭和34年8月3日、米国がソ連首相を自国に招待するという時勢の変化を重視し「桑原乞食の心のうち」という明徴小論を口述され、同35年8月酒田市明徴出版社に寄留自炊、年中裸の生活をしながら9年間運動を展開した。
桑原さんは裸になった理由を述べなかったが、外交官として日本外交をその都度外務大臣に対して建白書をもって批判してきたための警戒、指導者たちが国家民族の事より常に利己的打算に心を奪われているために、自身の正論を理解しようとしなかった事に対する憤りが、自らの肉体を苦しめなければならなかったものと思う。
桑原さんの口述された明徴小論は外交、政治、経済、軍事、教育など万般にわたっている。途中から番号をつけた小論だけでも2112号を数える。
桑原さんの著作の特徴は、専ら個人を日本民族の表徴として、教化されることに全力を傾注された。
日本民族を正しく再建するために、世界に通ずる科学的指導原理を創立し、これに生涯を捧げた純粋にして、高潔清廉な正真正銘の愛国者であり、指導者であった。
明治35年群馬県利根郡川場村に生まれる。東大2年で高文外交科に合格。大正15年4月外務省に入省。昭和14年エジプト代理公使(36歳)。同18年内閣総力戦研究所教官。同20年9月外務省を依願辞任。国体明徴運動を展開。翌21年7月「賠償問題に関する建白書」を吉田総理大臣に提出。これが実施されていたら似地名貿易摩擦は起きなかったであろうとされる。同35年8月酒田市幸町の明徴出版社に寄留、経営指導。小論口述、明徴講演を9年間実施。同44年7月酒田市で心不全のため死去した。66歳。