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郷土の先人・先覚114 文人政治家

青塚恒治(明治18-昭和33年)

青塚恒治氏の写真

昭和初期から政治家として活躍、太平洋戦争中は酒田市議長、消防団長となり、立派なあごひげと、将校マントをなびかせながら本町通りを闊歩し、終戦後の20年10月市長となったが、翌21年12月ごろ追放令により退任した。

堂々たる偉丈夫で、声が大きく、県会議員時代は庄内の“虎”と恐れられ、市長時代は“ライオン市長”と呼ばれたイメージを知るものにとっては、文人政治家というのはおよそ不似合いで、首をかしげる人も多いだろうが、青塚を知れば知るほど文人の面影が出てくる。

青塚は明治18年、本町一丁目の富豪・青塚岩治の子として生まれ、荘内中学を経て一高に入ったが、父親の死により中退し、一時、酒田商業高校の英語教師となった。当時、レベルの高い総合雑誌「木鐸(ぼくたく)」の同人となり、小説や随筆などを発表し、文学青年ぶりを発揮。昭和9年には「酒田いろは歌留多」を作った。その中に「露天市宵はさざめく中通り、本町は並木床しき役所街、夏来れば大浜海辺人の波、街並は碁盤割なり右左」などがある。

大正14年、40歳のころから胡沙(こさ)の俳号で俳句を作る。

漢詩を本格的にはじめたのは昭和21年、市長をやめてからと思われる。加茂の名士大屋雄三は義弟に当たり交流を重ねている。終戦後はお互いに市長、町長をつとめ、苦労を共にしていた。この大屋雄三が文人肌の人で、詩学の大家である鶴岡の土屋竹雨とは大の親友であった。

青塚が市長を辞めたとき、その所懐を漢詩にして大屋に送った。大屋がこれに次韻(他人の詩の韻字と同じ韻字を用いて作詩すること)を試みたがなかなかできず、苦しんでいたところへ竹雨が訪れ、その応援でようやくできた。ついで青塚が大屋へ詩を送り、竹雨の添削を乞うた。竹雨は一字の加除を要しない、完全なものと絶賛し、「恐らくは酒田に於ける第一人者ならん」と誉めている。

昭和30年ごろ、歌人の結城健三が新聞に「出羽路の(正岡)子規」をのせた。これを見た青塚は新聞社宛に酒田関係で気付いた点を書いてやった。その問答書が残っている。要約すると、子規が泊まった宿屋は伝馬町の三浦屋で、表口は西向き、敷地は200坪くらい、建物は総2階、客室は20以上、明治末の主人は伊東辰弥。その後、2頭立の客馬車を経営、大正時代には10人乗りの乗合を経営したとある。「夕陽に馬洗ひけり秋の海」の句は、吹浦の鳥崎付近で、若勢が盆休みで湯の田に遊び、乗馬を冷しているのをよんだものか、としている。

(筆者・田村 寛三 氏/1989年1月掲載)
※原稿中の地名や年などは紙面掲載当時のものです。

プロフィール

青塚 恒治 (あおづか・こうじ)

地方自治功労者。明治18年12月21日に酒田市本町に生まれる。荘内中学から旧制一高へ。酒田町会議員、消防組頭、酒田町助役を経て、昭和6年県会議員になった。県議に続いて酒田市会議員になり、市議会議長をつとめ、20年10月酒田市長に選ばれた。しかし、連合軍の追放令によって間もなく辞任、初代市監査委員に就任した。俳句、漢詩もたしなんだ。昭和33年7月15日、72歳で死去した。

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