戦後の昭和20年から50年までの間、本間祐介は酒田の顔であった。その顔は評論家の大宅壮一から何代もかけてできあがった顔、と評されたほどの深みのある立派なものであった。
写真家の土門拳の風貌とよく似ており、人を威圧する鋭い眼や、がっしりとした骨格は瓜二つである。
本間家の支族に生まれ、二松学舎専門学校に入ったが、叔父の本間光弥(本家当主)が東京で病死すると、帰郷して二度と学生生活には戻らなかった。
昭和5年、船場町で釣り道具屋を開いた。天性、モノの良し悪しを見分ける才能に秀でていた。これは兄の順治氏が刀剣鑑定の第一人者であることからも十分に察せられる。
同10年以降になると、庄内竿で見るべきものはほとんど氏の店に集まり、竿だけでなく、ハケゴでもタモでも贅沢な物の専門店として賑わった。
しかし、18年5月、本家の当主・光正の応召に際し、本家の家庭内のことからお店のことまで一切を任せられ、釣り道具屋をやめた。
20年3月には光正が病没し、その責任はいっそう重大になった。この頃になると酒田もいつ空襲されるか分からなくなり、本家の家族は近くの農村に疎開し、氏が茶室に寝泊りしてその留守を預かった。
当時、本家の邸宅は揚塔司令部になっていて、その隊長は陸軍少佐で傲慢な男であった。8月15日、無条件降伏で全市民が悲しみに沈み、途方に暮れていたとき、隊長以下の幹部は台町でやけ酒を飲み、その騒がしさを市民から注意されると、抜刀して「叩き切ってやる」といきまき、さらに司令部の裏門の前に部下全員を整列させ「今、酒田の港にはソ連の軍艦が向かっている。そこで街の要所要所にガソリン缶を積み重ね、命令一下これに火を放って爆発させる。酒田の奴もけしからん。全部焼き払ってやる」と号令した。後ろで聞いていた氏が「ひどい命令ではないか」ととがめると、「まさかそんなことはしないがね」とうそぶいたという。
戦後は遺産相続税や農地解放で苦労したが、何とか切り抜けたのは氏の功績である。
22年5月には敗戦により自信をなくした市民に、日本の良さを知って頂き、自信を回復させることが文化人の任務と考え、本間美術館を創立した。戦後できた美術館の第1号である。その後の活動は目を見張るものがあり、酒田文化のメッカとなった。古書画の鑑定家としても全国に知られていた。
明治40年4月9日生まれ。酒田中学校から二松学舎専門学校へ進学。事情により中退し帰郷。庄内竿の製作技法を修得して釣り具店を経営。その後、本間家の後見人となり、戦後の農地解放、本間家再興に尽力した。昭和22年、本間美術館設立とともに館長。日本博物館協会理事、日本美術刀剣保存協会評議員を務め、全国的文化活動に貢献。荘内育英会長、本間物産社長など歴任、学術、経済などに活躍。県文化財専門委員などとして地方文化の発展にも貢献した。昭和30年に斎藤茂吉文化賞を受賞。同58年9月2日76歳で亡くなった。