中指と爪の生み出す華麗な布の芸術、遠藤虚籟の至芸といえる綴錦織。古代エジプトに起こり中国を経て、奈良時代に日本に伝わる。その技法はフランスのコブラン織、中国の刻糸(こくし)にならって西陣に表された。
綴錦織はガラの部分を爪で織るところに特色がある。まず下絵を描き、たて糸の下に絵をおいて、色に合わせて白、赤、青、黄、緑、紫それに金銀糸、種類も絹、毛、木綿と千種万様。よこの色糸を小さな梭(ひ)に巻いて、縦糸の綾を通して綾を閉じ、中指の爪で押さえつつ、筋立櫛で糸をはね、よこ糸を整えて締めつける。中指の爪は三角ヤスリで鋸状の7本の櫛型に整形しておく。
「━極度に張った経糸の間を緯糸の梭を通す時、爪の先で糸を寄せる時、桜の木の筋立櫛の柄で糸を整調し、また歯の方でこれを締めて行く時など、極めて微かではあるが琴線に触れるような美妙な響きを伝えてくる。眼には絢爛たる錦織りが出来上がる色彩を眺め、耳には微かな音調を聴きつつ、自らが静寂の境地に導かれる。私はこの綴織りに私の進む今一つの新しい路、即ち私の須霊の路を見い出したのである。その綴織順霊の行路にも幾多の曲折があり、イバラがあり、托鉢乞行の苦難があったのだ。人生の生より死へを、順霊の旅と観ずる私には綴織る事もまた順霊の一部で、宿から宿への歩行に過ぎない━」。虚籟はその著『順霊の跡』にこう記している。また経緯(たてよこ)の組織は哲学上の時間、空間の消息と同じ事で、時間の経糸の上に空間の緯糸で、森羅万象の図柄を表現していくとも書いてある。
虚籟(本名・順治)は、綴織工芸界最高の大家である。明治23年12月20日鶴岡市大宝寺に生まれ17歳で上京。日本橋郵便局に勤めるかたわら中村不折に師事し洋画を学ぶ。しかし過労で眼をわずらい、その後宮崎虎之助の「神生教団」に入信して伝道行脚。のちに賀川豊彦の知遇を受けて貧民救済事業を手伝う。大正11年京都の上賀茂で大久保寿麿から綴錦織の技法を学び、再び東京に戻り、独学で研究を重ね、その技法を完成させる。同12年関東大震災に遭い、千葉県館山市に居を移す。
同14年日本美術工芸会の公募展に出品、入選してその才能を認められ、昭和5年虚籟の号で帝展初入選。同7年「水辺」入選。同9年「陶窯の図」が特選となったのちに無鑑査となった。
同12年著書「順霊の跡」を出版。同15年「暁の富嶽」を製作、当時の外務大臣・松岡洋右よりドイツに贈られた。同年東京の目黒に綴織作家協会を設立しその代表者となり、翌16年には仏画綴織の創作に成功して新分野を開く。19年故郷鶴岡市に疎開、風間家別宅で製作を行う。22年貞明皇后に献上された「如意輪観音菩薩」、23年マッカーサー元帥帰米の際贈呈された「飛天奏楽」、25年全日本仏教徒の総意のもとに平和使節としてニューヨークの国連本部に「阿弥陀如来曼荼羅中尊」を贈呈し、信仰と哲理を基調とした工芸家として、世界的に有名になった。
26年より27年の1年半は、櫛引町丸岡の天澤寺に仮寓して、姫路城に飾られた三曲衝立「白孔雀の図」の製作に当たる。同27年の夏、館山市に再び居を移し「観音菩薩曼荼羅」(栃木県満願寺に奉納)、「勢至菩薩曼荼羅」(浅草観音堂に奉納)の製作活動を続ける。晩年は病におかされながらも「阿弥陀三尊」の製作に精魂を傾けたが昭和38年12月26日その完成をみずに惜しくも逝去。享年73歳。虚籟の綴錦織は、愛弟子で大分県出身の女流工芸家、千葉県無形文化財・和田秋野女史に継承されている。
金峯山天澤寺は、虚籟の曼荼羅行脚17年中最険難の行程の時期で、同寺に仮宿して住職斎藤隆参師とともに、丸岡近在の櫛引郷を托鉢して多くの知己を得た。また天澤寺は加藤清正公父子の霊地として由緒ある旧蹟である。
虚籟は「この清浄幽玄なる聖域の一隅に、ゆるされるならばわが第二次世界戦争犠牲者怨親平等彼我一切萬霊供養、世界平和綴錦織曼荼羅謹作による端糸、屑糸を埋葬して、これに一個の碑を建立し、現代人の有つ人間の至情を青史に止め、その清浄なる風韻を後世に伝えたい」とかきとどめた。虚籟の遺言となった。
62年秋、虚籟没後25年故郷を中心に多くの人々のご芳志によって『虚籟綴錦織曼荼羅糸塚』が天澤寺境内に建立され、盛大に世界平和萬霊供養と虚籟先生25回忌法要が営まれた。
虚籟先生は製作の合い間に書もよくされた。「思無邪」「寂然坐神韻」「和歌静寂」「坐雲臥石」「泰山の雫石を穿つ」など、先生の精神、宗教、哲学、世界観を彷彿させる作品である。64年は虚籟先生の生誕100年を迎える。国連に寄贈された曼荼羅中尊の里帰りが具体化しつつあり、実現に向けて準備がすすめられている。
世界平和祈願を1本の絹糸に生命を托した故虚籟先生の「芸と心」「生きざま」を多くの人々に知っていただきたいと思う次第である。
我が国綴織工芸界の第一人者であり、世界的な巨匠。
明治23年、大宝寺村(現鶴岡市宝町)に生まれ、本名は順治。荘内中学を中途退学し、上京後中村不折に師事し洋画を勉強する。京都の大久保寿麿から綴錦織の技法を学び、以来、独特の技綴織工芸の技術を身につける。昭和5年「日まわり草」で帝展初入選以後、8年には「陶窯の図」で特選。文展改組後は無鑑査となる。作品はドイツ、中華民国、タイ、ビルマ、国連本部などに贈呈。芸術保存有資格者としての特典を与えられ、貴重な作品を多く世に残し、昭和38年、73歳で死去。