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郷土の先人・先覚121 本間家の8代当主

本間光弥(明治9-昭和4年)

本間光弥氏の写真

本間家8代の当主・本間光弥は、本間家の全盛時代、しかも大正の良き時代に出羽の富豪として世人からも慕われた幸福な人間といえよう。おのずから長者の風格があり、分家の本間久治氏は若いころ光弥に会ったときの感想を「自然と引き込まれるような感じ」とし、「私は今までいろいろな人と会ったが、そういう感じを持ったのは光弥大人と石原莞爾将軍の2人だけだ」と語ってくれた。

光弥は幼少時代から光丘の再来と称された、祖父の光美によって教育されたことが、天性の人柄とあいまって立派な人格者になったと思われる。このことは『九代光正様の御修業に関する卑見(ひけん)書(酒田市史資料篇五)』をみると、「大正二年全国金満家一覧表によれば東の大関として五千万円と称せられる。此頃御隠居様(光美)の御話に内の者が木綿物を着るのは外の人の絹の着物を着るよりも美しい。どうか光正も泥だらけになって稲を作る程の者に育てたい」とあることによってもその一端が知られる。

光美は文政2年・秋田の釈無等によって大信寺耕月に伝えられた玉川遠州流の茶匠であり、別荘の清遠閣でしばしば茶会を催し、明治時代、酒田に茶道黄金時代をつくった。光弥はこの光美から茶の湯の指導を受けた。茶匠・故藤井伊一氏の『不老庵茶話』には「学問は勿論、道具のこと、書画のこと、その他諸般に通暁した大茶人であった。光美翁の後をついで清遠閣に茶人を招じ、風流の催しを絶やさなかった」と書かれている。

書道にも優れていたことは光丘文庫にある「東宮殿下台臨處」の背記の文字の見事さをみれば明らかである。料理や和菓子にも詳しく、博学多彩であったが、平時はあまり表に出さなかった。しかし、中には金を含んでいる山は、自然と光るように世人の知るところとなった。蕩尽、博学多才では天才的ともいえる竹内淇州は負けず嫌いだったので、いつか光弥をへこませてみたいと考えていた。

たまたま昭和初期、酒田に上水道をつくることになり、市民はその話で持ちきりであった。ある夜、淇州は光弥にとうとうと水道問題を説いたが、最後に光弥から専門的な質問を浴びせられ、答えに窮してその夜のうちに山形に行き、県庁の専門職員から聞いてきたという。

光丘文庫や荘内育英会、酒田商業学校の敷地を寄付するなど文教の育成に尽くした。昭和4年、病気にかかり東京で療養した。亡くなる直前、ベットの上に正座して皇居を遥拝し、酒田へ向かって「ありがとう」といって病院の職員たちを感激させたという。

(筆者・田村 寛三 氏/1989年2月掲載)
※原稿中の地名や年などは紙面掲載当時のものです。

プロフィール

本間 光弥 (ほんま・みつや)

本間家8代当主。光輝の長男として明治9年9月26日に生まれる。早くから祖父の指導で本間家の企業、関連の農業関係の事業に携わる。明治38年5月から43年10月まで酒田町収入役を勤め、この間資本金7万2000円の信成合資会社を設立、不動産の管理部門を委譲し社長に就任した。山形県農会長、飽海郡耕地整理組合長を歴任し、荘内育英会、光丘文庫を設立。紺綬褒章受章。昭和4年7月31日、54歳で死去した。

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