新編庄内人名辞典に秋野惇蔵翁を地方自治功労者と記しているが、加茂町の町長に約14年間在任して、昭和19年、76歳で他界した際、町葬の礼で送られたのであるから地方自治功労者であったことは間違いないにしても、翁の生涯を通してみると、むしろ卓越したアイデアマンであり、そのアイデアを実践したプロモーターでもあったと思われる。
惇蔵翁を加茂の人たちは「惇蔵様」と呼び、私ども親族の者たちは「惇蔵さん」と愛称に近い呼び方をしていた。惇蔵翁は加茂の秋野の宗家・秋野新右エ門の長男として生を受けた。
新右エ門家は江戸末期から明治期にかけて「竹葉酒」という銘柄の酒造業を営んでいたが、翁の青年後半期には加茂港は遅まきながら近代築港と山影を走る鉄道問題で沸いていた。
それは長い歴史の中で海運のみで生活していた加茂港が、陸運をも均等に考えなければならない時代に直面していた。翁の持って生まれたアイデア欲と言おうか、事業欲と言おうか、そうした性分をかもするには十分な時代環境であった。翁が27、28歳ごろ庄内が大凶作に遭った際、神戸より酒田に南京米を移入。加茂精米所、鶴岡精米所の創立に参加し、加茂共栄商会を設立。翁はついに明治36年に先祖伝来ともいうべき酒造業を廃業した。廃業直後、八千代汽船合資会社を興し、自ら社長に就任している。
私が惇蔵翁の印象で最も強く残っているのは、翁が55、56歳のころの事と思うのだが、愛飲のアルコールはビール一筋だったし、ひっきりなしにくわえている煙草は、ゴールデンバットだった。
当時、老人と労働者は、きざみ煙草の煙管(キセル)、中年のだんな衆は巻き煙草の敷島とか朝日で、若者と学生はゴールデンバットであった。
鶴岡周辺で自転車のはしりの前輪が大きく、後輪が小さい自転車を乗り回したのは、惇蔵翁が初めてではなかったかという伝説もある。明治31年加茂町会議員となり、以来継続46年間町政に在任。その間、14年間町長に就任している。
町長時代の翁の業績が大なることは言うまでもないが、当時加茂町は政友会、民政党の政争が激しく、その政争に巻き込まれたためか、過去の翁の事業がアイデアとプロモーターのみで、経営手腕に今一つ欠けていたのか、10代、11代、13代の町長の座を逃しているのである。翁が町長でなかった昭和3、4年ごろ東北には一つもなかった水族館設立に着目したのであった。鶴岡-湯野浜間の庄内電鉄が開通したのは昭和5年だったと思う。近海漁業が盛んであった時代に加茂港の観光施策の一端として湯野浜の阿部与十郎、秋野光廣家等々と相計って同5年水族館を創業している。
昭和19年に死去したが、将来のためにも惇蔵翁のような人物を求めてやまない。
明治2年7月13日鶴岡市加茂生まれ。加茂の秋野の宗家・秋野新右エ門の長男。同31年から加茂町会議員となり、以来46年間在任。大正8年から町長3回。その間、汽船会社を創設して社長。このほか多くの公職を務め、加茂港、地域の発展、さらに西田川郡教育会長、県教育会幹事など教育界にも貢献した。また、明治30年の庄内の大凶作の際には、神戸から酒田に南京米を移入して危機を救っており、昭和19年10月16日に76歳で死去したときには地元で町葬が行われた。