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郷土の先人・先覚123 大茶人 光丘文庫創設に尽力

藤井伊一(明治13-昭和37年)

藤井伊一氏の写真

藤井家ははじめ内町あたりにいたらしいが、文化初年ごろ、8代・藤井伊平のとき今の堀切に移住し、大きな庭と攬翠亭と呼ぶ建物を建てた。庭には小豆島から取り寄せた御影石による極上の春日灯籠や、雪見灯籠を十数個も置き、酒田での名園に数えられていた。

幕末ごろ、藤井家は新井田蔵修繕の管理をしているから、藩との関わりを持っていたと思われる。

代々の地主であり、大正13年、13代伊一のころには131町歩の田畑を所有し、本間、村田、青山、池田に次いで5番目の大地主であった。

伊一は庄内中学を卒業すると同校で英語を講じ、さらに琢成補習学校で、数学と国漢を教えているから秀才であったことが想像される。若いころから本間光美翁に玉川遠州流の茶の湯を習い、不老庵宗巌の茶号を持ち、令名が高かった。また池坊生花の大家で、昭和6年からは酒田華道会会頭を務めている。

漢詩の日本的大家である鶴岡出身の土屋竹雨は義弟にあたり、紫軒の号で漢詩もよくした。書画骨董にも造詣が深く、書道は山口半峰に学んだ。品のよい風貌からも一見して卓越した大茶人であることで知られた。

昭和22年に本間美術館が創立されるとともに、酒田美術協会会長となり、また白崎良弥、甲崎環とともに嘱託として勤務し同館の発展に寄与した。そのことを甲崎環が『骨董窟記』に「本間美術館に爺捨山あり骨董窟と名づく。三遷あり聾軒頤髯居士(良弥)、鶴髪童顔居士(伊一)、たい巷禿菴居士(環)という。三居士この窟に会すれば頓に世喧を忘れ、風流に是耽る。洵に芸術の余沢というべし」とあり、童顔居士伊一を「茶道に委しく地方の宗匠たり。過日、米国のナン中佐(山形司令官)一行を六明廬(本間美術館の茶室)に幽閉する事十五分、足なえ起つあたわざらしむ。怪腕恐るべし」とユーモアたっぷりに記している。

藤井家は昔から茶の湯をしており、安政3年9月、酒田に玉川遠州流を伝えた秋田大舘浄応寺の釈無などが同家を訪れ、半日の清遊を楽しんだ。この時、漢詩を作り揮毫(きごう)した双幅が今も残っている。不老庵と称する茶室もあったのが明治27年の大震災で倒壊したため、大正末に伊一が再建した。昭和のはじめ不老庵に会して茶を楽しんだのは土屋親秀(鴎涯)、吉野安民、佐野慶如(龍厳寺)、富樫喜八、渡部静甫などで、鴎涯(おうがい)が鳥羽絵(とばえ)風の軽妙なタッチで描いた「不老庵茶怪記」が残っている。

(筆者・田村 寛三 氏/1989年2月掲載)
※原稿中の地名や年などは紙面掲載当時のものです。

プロフィール

藤井 伊一 (ふじい・いいち)

明治13年6月3日、酒田市の浜田に生まれた。131町歩の田畑を所有(大正13年)した大地主・藤井家の13代目。昭和6年酒田華道会会頭に就任。同22年に玉川遠州流酒田支部長。書画骨董もよくし、光丘文庫の創設にも尽力した。戦後は酒田美術協会会長、また本間美術館の発展に貢献し、第一回茂吉文化賞を受賞。県文化財調査委員も務めた。昭和37年10月29日、82歳で死去した。

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