明治26年落野目(現・酒田市)の地主に生まれ、庄内農学校を卒業すると小学校の先生となった。変わった先生で毎日相撲をとったり、走り競争や野球をしていた。文学好きで同人誌に投稿した。また、若いころから道元禅師の『正法眼蔵』を読み、座禅に親しんだ。
間もなく美しく気立ての優しい女性と結婚した。夢のような1年が過ぎたころ、いつも立ち寄るお医者さんから聴診器を借りる約束を取り付けたのを幸いに、ある日その医者の見ていないところで妻に聴診器を当てた。不幸なことにこの聴診器が熱病患者に使用してまだ消毒していなかったので、妻は感染して亡くなった。
自分の不注意から最愛の妻を失った悔恨に苦悶した彼は、妻の菩提を供養するため出家して仏門に入る決心をした。秋田町(酒田)の萬谷商店の付近の食堂で準備をし、虚無僧となって秋田方面に行脚したが、心配した家人に連れ戻された。
この悲劇は彼に生涯忘れることのできない痛恨事となったが、このことが彼の人生のバネとなりその後の人生を決定付けた。大正5年、23歳のとき山形にあった自治講習所に入り、ここで生涯の師と仰いだ所長の加藤完治に出会う。完治は東大農科を出、若い時からキリスト教や禅、トルストイ等の哲学を学び、最後に神道に至った哲人農政家である。
武夫は毎晩のように完治の部屋を訪れ、人生や思想問題で遅くまで議論をした。その結果、彼は完治を神のように敬うようになった。卒業して村に帰ったとき、彼は桁がはずれの人間に変貌していた。小作争議が激化し、完治が本間家を訪れ、小作人に土地を解放するよう進言したのもこのころである。
農民の幸福と、農村の振興を生涯の使命とした武夫は、昭和3年その理想を実現する第一歩として、落野目信用組合を創設した。さらにこれを産業組合に発展させ、同9年には盟友・渋谷勇夫とともに農家の所得増加と、産業組合経営の安定には農民自らが農業倉庫を経営するしかないとの信念のもとに、農業倉庫運動を起こし全国から注目を集めた。こうして以後、営業倉庫である山居倉庫側と激しい倉庫闘争を展開した。
こうして余目駅前に新堀農業倉庫を建て、昭和14年には県の斡旋で、山形県購販連と山居倉庫との貸借契約が成立し、戦後33年には全庄内の倉庫が全庄内農民のものとなった。
国会議員や酒田市議会議長を歴任したが、政治家風でなく、最後まで書生気質や求道者精神を持っていた。80歳で一切の公職を離れ温海に隠棲して正法眼蔵と座禅の生活を送った。
明治26年4月4日酒田市落野目生まれ。庄内農学校を卒業。新堀小代用教員を勤め、県立自治講習所に入所。農政家・加藤完治所長の指導を受け、卒業後農村問題に取り組み、大陸移民政策推進に協力した。落野目信用組合を設立して組合長、県信連、県連合農業倉庫各理事、新堀村農業会長など歴任して昭和21年衆院議員当選(1期)。その後、新堀村長、酒田市議会議長、県信連会長、農林中央金庫理事などを務めた。藍綬褒章、勲四等瑞宝章を受章。昭和58年10月11日、90歳で死去した。