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郷土の先人・先覚126 茜谷義務教育基金を創設

茜谷五市郎(明治15-昭和36年)

茜谷五市郎氏の写真

茜谷五市郎は、児童の奨学金として昭和25年酒田市に100万円を寄付した。この年、人事院が勧告した公務員給与が8085円、この地区の勤労者の給与の多くが5000円前後のころである。

五市郎は必ずしも経済的に恵まれた家庭に育ったわけではなかった。父は能登出身の船乗りであり、母は酒田出町で仕立て屋を営み、兄弟も多かった。五市郎は小学校卒業後の15歳で、北海道函館に住む庄内出身の荒物雑貨店にでっち奉公に行かされ、多くの苦労を重ねている。

母は当時の女性としては活動的な人であった。それで銭湯を開くことを決意し、明治29年に出町から酒田の中心街の秋田町に移り、風呂屋を開店した。兄の茜谷直治が店を手伝っていたが、日露戦争で直治が出征すると、函館から呼び戻され、店の仕事についている。

商才に長けている五市郎は、その才能を発揮するようになる。まず近くにあった製材所から出る廃材を自家用に使用し、さらに余分の廃材を薪として他に売る仕事も行うようになった。明治末には最上から亜炭を船で運んできて自家用と販売用に利用している。

石炭販売の事業が拡大していくにつれ、それが本業となり、大正初めには酒田船場町に石炭販売店を出した。また、大正3年に秋田町に酒田煉炭合名会社をつくっている。大正末には青森にある北海道炭鉱汽船の総代理店と取り引きができ、昭和3年には三井物産の特約店となった。そして、北海道石炭を直接船で運び、茜谷石炭屋の名前で石炭販売事業が一段と発展し、財を成していった。

昭和8年には、三井物産の紹介により、金物の事業にも着手、屋敷の向かい側に金物屋を開店。さらに同25年には五光木材株式会社を知人と共同で創立しているが、2年後には共同経営を解消、五市郎が単独で木材事業を経営するようになった。

茜屋商店石炭部、同金物部、同木材部、それに銭湯を経営し、その後、石炭は石油、プロパンガスなどに変わり、銭湯は廃業したものの、五市郎の事業は大きく飛躍していった。

日露戦争で兄が出征した時、留守家族の苦しい生活を救うために、本間家が米を支給した事などを忘れていなかった五市郎は、その恩をいくらかでも社会に返したいとして、困っている児童に温かい手を差し伸べることを決意し、茜谷義務教育基金を設立した。その後も基金を殖やし続け、酒田の教育のため、その利子が運用された。

(筆者・須藤 良弘 氏/1989年3月掲載)
※原稿中の地名や年などは紙面掲載当時のものです。

プロフィール

茜谷 五市郎 (あかねや・ごいちろう)

個人で教育基金を設立した実業家。明治15年、父・常吉、母・春代の五男として酒田出町に生まれる。そのため五市郎と名付けられる。質素勤勉を絵にかいたような人で、北海道や東京に商用に出かけた際も決して宿泊せず、夜行列車で帰ってくるほどだった。趣味もなく、公職にもつかず、仕事一筋の生涯であった。昭和36年79歳で亡くなった。

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