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郷土の先人・先覚131 儒教や道教にも通じ庄内の道元と仰がれる

金龍和尚(明和7-文政2年)

金龍和尚の写真

本間光丘が活躍した明和、安永年間、酒田の禅宗界には多くの傑僧がいた。光丘が帰依した海晏寺二十八世海山智門をはじめ、持地院二十五世斗山固胤(こいん)、十州丈玄、萬量黙湛などがいて禅風を挙揚していた。

安永8年、斗山固胤は曹洞宗大本山・能登総持寺の輪番を勤めた。そのとき、総持寺の門前町穴水(あなみず)で、いかにも利発そうな9歳の少年と出会い、両親に頼んで弟子にもらい受け、その子を連れて帰ってきた。そして「私は2つの金龍を土産に持ってきた」と意気揚々と語った。

その一つは金龍と名付けた少年であり、もう一つは登り龍の飾りが施されている如意だったと語り伝えられている。

ところが大正11年に牧頼元という亀ケ崎に住んだことのある人の書いたものを見ると、最初から仏弟子としたのではなく、酒田に帰った後、学問を教えていたところ、ある日少年から出家したいとの望みがあったので、それを許し剃髪したとある。その時、斗山は金色がさん然と輝く登り龍の如意を示し、「お前は今、仏門に入ったからには大いに奮励してこのような光輝を発する名僧になりなさい。よって名前も金龍と名付く」といったという。

そこで金龍は、斗山や戒光義船(長淵寺、正法寺、大石田向川寺を住した名僧)について修行に励み、学徳兼備の瞑想に成長し、庄内の道元禅師と称された。

はじめ手蔵田長淵寺の住職となり、ついで宗淵寺や新田目梵照寺を経て、鵜渡川原の青原寺二十六世となった。仏学だけでなく儒教や道教にも通じ、博学宏才をもって知られた。自分をはかる場合、どういう弟子を育てたかということが一番良い物差しだと思われるが、金龍も歩山歩雪(ほざんほせつ)、晩成大器、宜黙痴禅(ぎもくちぜん)、圓通魯道という逸材を出している。

こうした専門僧のほかに、俗弟子として一代の義人白崎五右衛門一實(かずさね)がいることは特筆されてよい。一實の父・一恭(かずやす)はかねて崇拝していた金龍に長男一實の教育を頼むのが最も良いと考え、11歳の時から青原寺に預け、15歳までの5年間、金龍の薫陶を受けた。写真の絵は成人した一實が師匠の金龍にあいさつをしているものである。

晩年、遊佐升川永泉寺の傍らに滝泉庵を結んで隠棲し村人を教育した。幕末にこの地から佐藤藤佑・佐藤政養らの傑物が輩出したのは金龍の感化による。

また、鵜渡川原の学事や文運は金龍の教化によるといわれる。漢詩をよくし「樗散詩偈(ちょさんしげ)集」を残している。

(筆者・田村 寛三 氏/1989年3月掲載)
※原稿中の地名や年などは紙面掲載当時のものです。

プロフィール

金龍和尚 (きんりゅうおしょう)

僧侶。9歳の時、酒田の持地院住職・斗山固胤に伴われて能登総持寺の門前町から酒田に来たといわれている。鵜渡川原の青原寺二十六世住職。能登総持寺の輪番をつとめ、固胤らに師事し、庄内の「道元禅師」と称されている。多くの子弟を養成、その中には名僧・魯道、白崎五右エ門らがいる。晩年は遊佐町升川の永泉寺の傍らに滝泉庵を建てて生活。文政2年7月9日、50歳で亡くなった。

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