酒田・本町一丁目の池田家は政治の名門だった。藤弥の父・藤八郎は酒田町長、飽海郡会議員、国会議員をつとめ、長く有恒会の総帥として飽海政界に君臨し、昭和10年には市役所前に大きな銅像が建てられた。
藤八郎の実兄、本間光義と叔父の本間耕曹は共に国会議員であり、一時、池田家の養子となった森藤右衛門は自由民権運動の指導者として全国的に知られている。
池田家が文献にみえるのは、享保3(1718)年の御用金献上に150両の4軒についで本間家初代久四郎ら5軒とともに100両を納めているのが初出である。しかし、この時の池田六郎兵衛家は藤弥家の本家らしく、18年後の元文2年40両を納めている池田藤九郎家が先祖と思われる。文政12(1829)年の庄内長者番付では本間・伊藤・鐙屋とともに藤九郎が行司となっているから富豪としてその全盛を誇っていたのだろう。
藤弥は明治44年、早稲田大学在学中、父の急死で酒田に帰り家督を継いだ。当時、池田家は137町歩の田地を有する大地主だった。彼は父の後を受けて酒田幼稚園主となる傍ら、推されて町会議員、飽海郡会議員となり地方政界で活躍した。
大正4年2月、衆議院議員選挙が行われ、国民党総裁・犬養毅は自派の代議士候補者・伊東知也の応援にやってきた。その夜、港座で政談演説会が開かれ、町民たちは犬養の顔を一目見ようと続々と会場前に詰め掛けた。間もなく1台の人力車が会場に着いた。中からあごひげをたくわえた立派な紳士が悠然と降りてきた。これこそ犬養だろうと思ったところ、実は藤弥だったという。これくらい彼は若い時から大物の風格を備えていた。彫の深い面長な風貌と立派なあごひげは、祖父・本間光貞と生き写しである。
同8年、町長・中村弘のもとに藤弥は32歳の若さで酒田町の名誉助役となった。藤弥は有恒会の総帥として機関紙・酒田新聞を主宰していた。ところが太平洋戦争前、大川周明が酒田で新聞を発行するとき、合同を求められて同意しなかったことからトラブルが起こり、その後一切の政治活動をやめ、そのしるしとして彼は死ぬまで大門を閉ざしていた。気骨と風格のある典型的な地方政治家であった。
明治20年7月24日、酒田市本町一丁目に生まれた。元酒田町長、衆議院議員・池田藤八郎の息子。早稲田大学に進学したが、父の急死に伴い中退して帰郷、田畑137ヘクタールの大地主の家督を継ぎ、弱冠24歳で第2代酒田幼稚園主になった。酒田町会議員、飽海郡会議員を歴任して大正8年に推されて町助役に。地主の政治団体・有恒会の総帥として飽海地方の政界で活躍。機関紙・酒田新聞を主宰した。幼稚園主は昭和42年10月3日、81歳で死去するまでつとめた。