小島家は由緒が古く、祖先は最初、八幡町一條の政所にいた。その後、砂越、高砂、広田を経て下台町に住み、おそらく文化年間ごろに浜田に移住したものと思われる。金毘羅像と数本の赤ふんどしが代々伝えられていたというから高砂時代は漁業をしていたものらしい。
浜田に来てからは代々大地主・藤井家の支配人をしていた。父・吉郎は早く隠居したので小一郎は17歳で家督を継ぎ、持ち前の腕力で2人分働いた。小作米を決める検見の際、全部刈らせるという厳しさに疑問を感じ、次第に小作人の窮状に同情的となった。
大正2年3月、凶作と耕地整理後の小作料増徴に端を発し、北平田の渡部平治郎が義挙団を組織し、貧民救助と大書したむしろ旗を掲げ、小作料軽減を要求して大々的な闘争を展開した。25歳の多感な小一郎はこの争議に大きな刺激を受けて農民運動に目を開かれ若き日の情熱を燃やした。
そうしているうち元泉の富樫雄太が病気のために帰ってきた。彼は東京に出てキリスト教社会主義者・賀川豊彦の弟子となっていた。彼は大正11年日本農民組合鳥海支部を作り、農民運動を開始した。小一郎は思想的に大きな影響を受けた。
同年、庄司柳蔵らと飽海耕作連盟をつくり、本格的な農民運動を開始した。小一郎は真の敵は日本一の大地主・本間家であることを見抜き、その立場から闘争を指導した。当時、本間家では一族の本間光男、元也の両氏をあげて農民対策に当たらせていたが、それはまさに遠謀深慮であった。
本間家の分裂工作にあい組合は分裂と統合を繰り返したが、小島らは常に中央の農民組合の傘下にあった。後の社会党委員長・浅沼稲次郎などが1年以上も小島家におりビラ張りなどに活躍した。このころから社会大衆党の夏季農民講習会が毎年1週間、大町公会堂や新片町で開かれ大勢の農民が参加した。浅沼はこの中で組織論と雄弁術を講じている。麻生久は党員倫理を担当しており相当に高度なものであった。講習会は昭和12年ごろまで続けられた。
同14年5月、菜の花のまっさかりのある日、大宮の小作地を地主側が強制的に取り上げようとしたことから小作人代表11人との間で乱闘事件が発生した。この事件は小島にとって生涯忘れることのできないものだった。昭和3年には大阪で開かれた全国農民組合創立大会に、同20年には日本社会党結成大会に参加した。
農民運動の父。明治21年1月15日、酒田市浜田の農家に生まれた。若い頃から農民運動に打ち込んだ。大正11年2月、飽海郡耕作連盟を結成、農民解放運動に尽力した。昭和14年9月、県会議員に当選。終戦直後の昭和20年12月、東京で開かれた日本社会党結成大会に庄内地区代表として出席した。昭和35年2月17日、72歳で死去した。