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郷土の先人・先覚143 稲の新品種・冷害に耐え

伊藤石蔵(明治15-昭和6年)

昭和29年の東北地方の冷害に耐えた品種として有名になった藤坂5号は、新堀村(現・酒田市)の伊藤石蔵が作り出した善石早生が親になっている。

石蔵は幼少のころから稲作に興味を持ち、藤井家に入ったあとも、稲作にはことのほか熱心であった。そこで稲の品種改良を志していた石蔵は、稲刈に行っても稲穂だけを見つめており、稲刈の仕事はさっぱりはかどらなかったといわれる。

石蔵の研究熱心は、大正6年に新品種の善石早生として実を結んでいる。善石早生は板戸早生にイ号を交配して育成したものとされている。

菅洋氏著『稲を創った人々』によると、耐冷性に優れた藤坂5号は、青森県農試藤坂試験場で、双葉と善石早生の交配によって育成されたものであった。善石早生はそのほかに、青森農試が陸羽132号との交配によって早生稔を育成している。早生稔は昭和25年から同28年まで青森県の奨励品種であった。

石蔵はその後も善石3号、善石4号を、大正13年には六日早生の新品種を育成している。六日早生は最盛期の昭和5年には2742ヘクタールに作付けされて、昭和8年の山形県の主要12品種の中にも入っていた。六日早生は当時早生の中でも最も早い早生種であったが、耐冷性が弱く、倒れやすかった。それでも宮城県では昭和16年から同22年まで奨励品種に採用している。

石蔵の育成した耐冷性の品種は、東北各地の試験場などで親として使われ、キヨニシキ、トヨニシキ、フジミツ、レイメイ、アキヒカリなどを生み、東北地方の稲作の品種改良に大きな役割を果たしている。

石蔵が養子として入った板戸は、万治2(1659)年庄内藩士・杉山成一によって開かれた比較的新しい村で、本間家などの小作人が多かった。石蔵もその中で苦労しているが、頭が切れ、手先が大変器用であった。特にわら細工にその才能が発揮され、石蔵のなった縄は最高級品、わらぐつはまさに芸術品。わらで編んだ手かごは水を入れても漏れないほど緻密にできていたという。また人一倍力があって、土橋に雪がなく、五斗俵を3俵積んだそりが動けなくなった時、米を積んだままのそりを背負ったという。

石蔵の作ったもち米は、善四郎もちの名で売り出されており、善石早生の名は、善四郎家の善石早生の名は、善四郎家の善と自分の名の石からつけたものである。

(筆者・須藤 良弘 氏/1989年5月掲載)
※原稿中の地名や年などは紙面掲載当時のものです。

プロフィール

伊藤 石蔵 (いとう・いしぞう)

稲の品種改良家。明治15年、余目町大字南口の農家・伊藤勘助家に生まれる。後に新堀村大字板戸の農家・藤井善四郎家に婿養子として入る。石蔵は5人兄弟であったが、長男であったことと藤井家の都合などで、藤井家に住みながらも終生伊藤姓を名乗り、結局石蔵の長男が藤井善四郎を襲名している。稲の品種改良に没頭、その功績により農林大臣より賞を受けているが、その時自分は農民であるとして、百姓の姿で東京に行っている。昭和6年3月に死去した。

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