酒田中学の第3回卒業生の小野良助氏が『筧舜亮先生伝』を出版された。
一生徒にこれほどまでの感化と情熱を与えた筧舜亮はよほどの傑物だったに違いない。
小野氏と筧との出会いは大正11年4月6日の酒田中学入学式であった。その時の感激を「その風貌のただならぬさまに圧倒され、瞬間、電気にでも打たれた感じがした。……筧校長の訓示はしかしあまり詳しくは覚えていない。心の感動と動揺が激しく、余計なことを連想したり、半ば筧校長の霊感に打たれ続けたのかもしれない。まるで子供心に催眠術にかかったかとおもった」と記している。小野氏は後に弘前高等学校教授となっていた筧の後を追うように同校に入学している。
筧は明治17年、福島県信夫郡庭坂村で清水千代之助・シゲ夫妻(染物職)の子として生まれ、鶴吉といった。近くに天台宗の名刹観音寺があり、住職を筧亮海といった。鶴吉が小学校を卒業する時、小学校長は「とてつもない秀才神童がおるが家庭の事情で進学できない。観音寺で面倒をみていただけないか」とお願いし養子になった。舜亮の名前は養父の亮海と、その先代の舜海から一字ずつとったもの。
こうして筧は第二高等学校を経て明治44年東京帝国大学印度哲学科を卒業した。その直後、唯一の著作である『ジャンヌ・ダルク』を出版している。同年札幌中学校に赴任した。同校に9年勤め、大正9年、酒田中学創立とともに初代校長として迎えられた。筧は帝大印度哲学の時、大川周明と同期で盟友であったから大川の推薦があったかもしれない。時に筧は37歳である。
着任当時はひげを生やしていなかったが、間もなく立派なひげを生やした。それに眼光炯炯(けいけい)として人の心を見抜くような眼差しで、見るからに侵しがたい威厳を持っていた。
筧は酒田中学の校風を質実剛健・堅忍不抜・自由闊達とし、「少年よ大志を抱け」とか「地味に真面目に」をモットーとした。将来、有為の人材たれと教えたのも単なる立身出世のためでなく、その場その場で全力を尽くせということだった。校歌は二高時代の先輩・土井晩翠に筧が依頼したもので生徒の心を奮い立たせた。
スパルタ式の厳格な精神主義的教育者だったが、慈父のような温かい面もあった。生涯独身で哲人のような孤独清廉な生涯を送った。
酒田中学初代校長。明治17年2月10日福島県信夫郡庭坂村大字観音寺に生まれる。旧姓名・清水鶴吉。東京帝国大学印度哲学科を卒業(明治44年)と同時に札幌中学校に赴任。大正9年3月、酒田中学校(現・酒田東高校)の開設とともに36歳で初代校長に着任した。スパルタ式の厳格な教育方針で、質実剛健の校風を打ち立てた精神主義的教育者。弘前高教授兼生徒主事。盛岡中校長、浪華高教授・教頭を歴任。昭和13年に55歳で死去した。