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郷土の先人・先覚147 石川3兄弟の偉大な父

石川養貞(天保8-明治27年)

昭和54年5月4日、立川町大字狩川字阿古屋旧石川邸(現・庄内町)に「三博士生誕の地」と刻んだ大きな碑が建立された。

立川町が生んだ石川貞吉医学、藤井健治郎文学、平瀬亨三医学の三兄弟博士の業績を追慕顕彰して、遺族と有志で建立したものである。

碑文のはじめに三博士の父・石川養貞について「父養貞は西洋医学を修め狩川にて医業を営む傍ら村政県政に奔走し地方自治のために大いに貢献す」と刻まれている。実はこの父があっての三博士で、三兄弟博士の生誕には父・養貞の志を忘れることはできない。

養貞は、天保8(1837)年8月24日、医師・平瀬傳六の四男として鶴岡の銀町に生まれ、狩川の医師・石川養気の養子となった。鶴岡元曲師町の医師・石川春沢の門弟となり、東都に遊学すること再度、西洋医学を修めて帰り狩川で開業した。当時は漢方医だけだったので、新進の医術は大いに住民の信頼を得た。

養貞は医業の傍ら村政や教育にも尽力した。明治7年のワッパ騒動を機に、庄内にも自由民権運動が起こり、同13年に森藤右衛門や鳥海時雨郎らと共に尽性社を興し、また啓蒙社設立の建白書及び規制書を作り、住民の啓発と民権の伸長を図った。同年県会議員に選出され、以来同27年4月15日に死去するまで三度当選し地方政治に活躍した。

明治14年板垣退助が自由党を結成すると率先して入党し、また雄弁家としても知られ、地域の行政刷新のため筆舌をふるった。そのことは「北越奥羽有志諸君に忠告す」(明治13年)、「東西田川合郡の事を論ず」(明治15年)、「飽海東西田川三郡人民の注意を促す」など多くの論文によってもわかる。

同22年町村制施行により狩川村会議員に選ばれ村長・大川英明を助けて村政に寄与し、学務委員となり、教育の充実にも力を尽くした。

明治7年、見政寺を仮校舎として狩川小学校が開校した。当時学齢(満6歳から13歳まで)に達したものは294人であったが、実際に入学したものは61人で、女生徒は1人もいなかった。それで養貞は長女みやを入学させて村民を驚かせたという。また、長男貞吉を学齢以前に小学校に入学させたことも語り草になっている。

前記三兄弟を東京帝国大学に入学させ、3人ともそれぞれ博士の栄位を受けられたのは、本人たちの努力はもちろんであるが、父・養貞の教育の賜物ともいうべきであろう。

(筆者・清野 久雄 氏/1989年5月掲載)
※原稿中の地名や年などは紙面掲載当時のものです。

プロフィール

石川 養貞 (いしかわ・ようてい)

医師。天保8年8月24日、鶴岡の銀町(現・三光町)に生まれる。立川町狩川の医師・石川養気の養子に入った。鶴岡・元曲師町(現・本町三丁目)の医師・石川春沢の門人。江戸へ2回遊学し、西洋医学を習得して狩川で開業した。医業の傍ら村政、教育に尽力。明治13年から3回県議に選ばれた。雄弁家として知られ活躍。石川三兄弟の父であり、明治27年4月15日、58歳で死去した。

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