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郷土の先人・先覚148 自由民権を築いた豪傑

松本 清治(天保13-明治31年)

清治は天保13年、酒田熊手島の堀善蔵の二男に生まれ、小さい時、新田目村の富農・松本藤十郎の嗣子となった。

安政3年わずか14歳ころ、外には西洋列強の東洋侵出、内には徳川幕府打倒のうねりが高まるという時代の波に動かされ、伊勢参拝と称して郷里を出て、江戸や京都で四方の志士と交わった。

特に大坂では頼三樹三郎(みきさぶろう)を旅宿に訪ねて、数日間に渡ってお互いに時事を議論し、意気投合したというからずいぶんと早熟だった。

この時、三樹三郎の紹介で頼支峰の門に入り、教えを受けた。ここで清治は佐久間象山の噂を聞き、ついにたまりかねてその塾を訪ね、教えを受け大いに得るところがあった。

こうして羽根をのばし天下に名を成そうとしたものの、遊歴の期限も過ぎてやむなく郷里に帰った。まもなく歴史の舞台は変わり明治維新を迎え、全ては一新された。清治も夢が実現したとして新政府に期するところがあった。明治2年、酒田民政局長官・西岡周碩に育英について建議し、同年6月天正寺に学而館(がくじかん)の創設をみた。

しかし、清治の夢は次第に幻滅となり、中央では薩長による藩閥政治が政権をほしいままにし、庄内では旧態依然たる圧政が展開された。圧政に苦しんだ農民は天狗騒動、次いでワッパ一揆と果敢に抵抗したが、武力の前には矛を収めるしかなかった。

このとき立ち上がったのが森藤右衛門や松本清治、鳥海時雨郎らだった。

森は酒田県の悪政を元老院や左院へ訴えるため上京する数日前、清治の宅を訪れた。清治はかつて上京の折、三樹三郎から贈られたと思われる大塩平八郎の梟首(きょうしゅ)の画に三樹三郎が賛をした凄惨な幅を床の間に掛け、その前で水杯をし「大衆の困苦を救うためには命を捨ててもよい」と悲愴な別れをした。

森の東京のおける訴願や言論活動が功を奏したのには、陰から色々と支援した清治の力も大きかった。彼はもし森の建白法廷闘争が失敗した際には、最後の手段として武力闘争も考えていたとも一部にはいわれている。

明治11年に農民勝訴の判決が下ったが、還付金の使途について森と金井らで争った時、清治は森が6カ年に渡り家産を放棄して尽力したための勝利と弁護している。同12年には森とともに山形県最初の政治結社である尽性社を、次いで両羽新報を作って自由民権説を主張、一時民権王国を築いた。清治の死に際し飽海民党は「尽性社の魁首」とその死を惜しんでいる。

(筆者・田村 寛三 氏/1989年5月掲載)
※原稿中の地名や年などは紙面掲載当時のものです。

プロフィール

松本 清治 (まつもと・せいじ)

自治功労者。天保13年1月25日酒田市熊手島生まれ。同市本楯の富農の養子にはいる。幕末期に江戸や京阪地方に遊学、明治2年に酒田民政局へ有志と学校設立を建議、「学而館」の創設が実現した。同12年県会議員になり、森藤右衛門、鳥海時雨郎らと政治結社・尽性社を設立。両羽新報も創刊した。その後、村会議員となど歴任し、果樹、野菜などの改良研究、製糸事業の振興に尽力した。和歌、俳句をたしなみ、明治31年2月21日、57歳で死去した。

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