『もう20年、吉田苞竹に生命の恵みがほしかった』
これは今、中央書壇においてその論評しゃくしゃくたる「田宮文平氏」の言である。「もし、吉田苞竹の生命の恵みがもう20年あったとしたら戦後の日本の書壇はかなり変わった姿になっていたにちがいないと思う」と書き、その早逝を心から惜しまれている。
私は20年と言わず10年でもよかった。それでも満59歳でなかったか、と残念でならない。田宮文平氏は苞竹の門弟でもなし、縁籍者でもなし、東京都出身の国際情報の人であり、評論の第一人者である。その人が吉田苞竹を『正統な書を求めた生涯-吉田苞竹』と評論し、鳴鶴の書学の正統な継承者としての第一人者と認めてくれたことで十分に意を尽くされていると思う。
現代書作家系統図を見る如く、ともに日下部鳴鶴の傘下にあって、大正から昭和にかけて日本の書道界における双璧と唱われた。苞竹が山形県出身であるのに、片や尚亭は四国の高知県出身であり、明治19年生まれの尚亭は苞竹より4年先輩で、文検合格も4年早い。
尚亭はそして東京に出て来たのも、大正7年で苞竹より1年早い。この尚亭は大正13年に大阪に移り、日本書道作振会、戊辰書道会、泰東書道院の審査員等々と吉田苞竹と常に志を同じくして、日本の書道振興に貢献したことで有名。東の苞竹に対しては西の尚亭と今でも関西地方ではその影響を大きくうけられている大家であった。
惜しむらくは川谷尚亭は昭和8年1月、僅か46歳でこの世を去り、痛惜の至りであったが、同15年4月に吉田苞竹もまた満49歳でこの世を去った。片や庄内は鶴岡出身の苞竹と、片や四国の高知県出身の尚亭が、奇しくも東西の親友であり、同志であった両雄がここに早逝したのであった。
どこにあっても、「あっ苞竹の書だ」と分かる程、線が澄んでいる。見る人の心を落ち着かせる。これが庄内人の好きな字である。
現在高校で使用されている教科書の中に苞竹の書が多く採用され、若い生徒諸君の眼に入っている。次に
七絃琴の音は清らかにあふれて、静かに「松風」の凄涼な旋律を聴くと、この古い調べを私はとても愛するのですが、今は既に弾く人もまれなのは残念である。
中唐の詩人「劉長郷」の「弾琴」の題の詩である。長郷の作詩ではあるが、全くそのまま苞竹の詩と言いたい程、苞竹の心情を詩ったもののようで、感慨の深い書であると思う。
苞竹は古典古筆を愛し、大切にしてきた人であったれば、この詩の古調を愛すというその語にとても引きつけられたことと思う。この詩意と全く同感して心をこめて2行書きにしたものではなかろうか。
それを知ってか、この教科書の編集著者が取り上げて下さって、高校の生徒の作品制作の範例とするよう企画されていることにまた敬意を表したい気持ちである。
この詩は宋の陸放翁の詩で有名である。
物事の理に通達した人は、物事を十分に見抜いているので、万物を小さく見る。また正剛にして義に勇む士は雄々しい心を有して、処々の国に遠遊する心をもっているものだ。
この教科書では楷書の創作指導に欧陽詢や顔真郷の書の趣を生かした表現を提示し、次いでこの苞竹や梧竹や良寛の書の図板によって楷書の指導をまとめるようにしている。
あるいは臨書指導教材にしても、又は鑑賞教材に、又は家庭生活と書作品という実用の参考教材として、古今東西の書家の名筆が採用印刷されている中に、我が苞竹の作品を提示して、教授者の授業の時の参考にと著者の苞竹の書を次のように評している。
この作品は吉田苞竹先生の絶筆となったもののようです。高校教科書の行書指導参考の色紙に3行に書かれたものである。
そして失礼な言葉かも知れないが、苞竹先生の字は少しも嫌味のない、さわやかな感じの字であり、文句もよいではないか。満山一面に覆う雪も煙もみなこの1本の筆の下に表現されること、一叢の松も竹もこの1本の筆の先(毫端)で書き表すことができるという、正に気宇壮大にして清々しく、書画の妙諦というか、醍醐味をこの七言二句の中に言い表しているように思われる。
そしてどの教科書にも同じ頁に巌谷一六、鈴木翠軒、川村驥山、中林梧竹等の作品と並べて印刷されているが、一際光り輝いてみえる苞竹の書に感無量を禁じえません。
吉田苞竹先生が逝去されてから明後年は50年になる。にも拘らず今もなお苞竹の薫陶の延長(おかげ)が根を広げ、書道が盛んに血を引きやっている地域がある。大泉小学校(白山)地区である。苞竹先生が山形師範を卒業して初めて着任した学校で、油ののりきって指導された満3年半の教育は生徒全員に肉筆の手本を与えて行われたもので、児童の父兄の崇敬を一身に集めたと年譜に明らかにしている。それほど情熱を注いでの教育は必ず子々孫々にまで残るのは当然で、今でも大泉地区は他地区と比して書道がぐんと盛んである。同じような経緯が山添地区でも言えるが。苞竹の教育の力の威大さに慎んで敬意を表したいと思う。
明治23年鶴岡市十三軒町(現在の三和町)に生まれる。茂松、晩年は「懋(しげる)」とも書いた。同35年に13歳で黒崎研堂の門に入り、漢学書道を学ぶ。同44年に山形県師範学校卒、大正4年に文検習字科合格。黒崎研堂の紹介で日下部鳴鶴に入門。明治44年に大泉小学校訓導に就任、大正3年10月15日付で朝暘高等小学校訓導。同5年に酒田高等女学校教員となる。同8年に書道研究のため、教員を辞して上京し、鳴鶴先生のお世話で赤坂区に書道研究会を創設、後進の指導にあたる。次いで「青海」を創刊したり、「碑帖大観50巻」刊行の大事業をやったり、硯の研究、書道読本、書壇の発行に尽力し、戊辰書道、泰東書道会、東方書道会、書壇院を興し、各々展覧会を開催して書道の振興に尽力した。