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郷土の先人・先覚150 正義感強い自由民権家

高橋直勝(嘉永2-明治31年)

明治17年8月、直勝が35歳の時、遊佐学区の学務委員となった。事務所を遊佐町の梅津惣吉宅に置き、他家に下宿して勤務した。勤めた日から「枕瓢酔誌(ちんぴょうすいし)」と題し、日記を書いている。その自叙に「首を垂れて権門におもねず、栄達を願って一身を縛られるのを好まず、むしろ日光川の水清く鳥海山は沖天にそびえる、この佳境に入り日夜酔い天真を楽しまんや」と述べている。この中に彼の精神と生きざまが余すところなく語られている。

反骨精神にあふれ正義感が強く、文章に巧みで酒を愛し、興にのれば談論風発し、たちどころに漢詩を作った。

日記によると当時遊佐には安養、鳳山、野沢、鳥海、宮田、頴進、宋島、宮内、恒川(高砂)、明秀(宮海)、学山(藤崎)、開進、琢智、晴光、三川、曙暘、成立の学校があったことが知られ、彼はよくその職責を果たしている。

直勝は嘉永2年、鵜渡川原(酒田)の歩卒の家に生まれた。戊辰戦争では走隊長として秋田方面に従軍し功労をたてた。明治2年学而館に入った。同7年上京し司馬遠湖の下で漢学を修め、10年には山梨県で教員となり、12年に新しくできた琢成学校の教師となった。

この頃から政治、ことに自由民権運動に関心を持ち、森藤右衛門らと交わり、14年5月には酒田町戸長に当選したが、民権派と官のあつれきで6月には辞めさせられている。同年4月、森らは自由民権説を鼓吹する目的で両羽新報社を今町に創設した。直勝は戸長を辞めると新聞記者として入社し得意の文筆を奮った。

社長が森で、記者には直勝のほか桜田憲章、桑原弓之輔、大井通明らがいて、自由民権の黄金時代を築いた。

7月には直勝の後を受けて、森が酒田戸(町)長に立候補し、1470余票の絶対多数で当選した。県では一度は戸長辞令を交付したものの再び無効として取り消した。このため、酒田町民は騒然となり、1200余名が県に抗議書を提出した。鹿児島県出身で三島山形県令の懐刀として専横を極めた貴島宰輔飽海郡長の罷免を要求して、ついにその実現をみた。

民権論者・馬場辰猪らが酒田に来て政談演説会が開かれると、熱狂した町民が会場にむらがったのもこの頃である。森は福島の河野広中と共に東北を代表する民権家だったが、森のほか鳥海時雨郎、松本清治、鷲田義則、斎藤保、長浜藤四郎らが民権家として知られた。

晩年は郷里の先覚者・阿部千萬多の顕彰に尽くした。

(筆者・田村 寛三 氏/1989年6月掲載)
※原稿中の地名や年などは紙面掲載当時のものです。

プロフィール

高橋 直勝 (たかはし・なおかつ)

自治功労者。嘉永2(1849)年6月12日、酒田市鵜渡川原に生まれた。別名・兼四郎。若いころ戊辰戦争に参戦して秋田へ出陣、その後地元の学而館に学び、上京後司馬遠湖について漢学を専攻した。明治10年2月、山梨県師範小学一等訓導に着任、その後帰郷して同14年5月に酒田町戸長になった。両羽新報社に入り、同29年には西荒瀬村長に。森藤右衛門、鳥海時雨郎らと自由民権運動に活躍、県会議員も務めた。漢詩を得意とし、明治31年12月23日50歳で死去した。

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