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郷土の先人・先覚158 宗門改革を叫んだ傑僧

徳峰即現(寛文元-延享4年)

徳峰即現像の写真

即現は寛文元(1661)年に江戸で武士の子として生まれ、15歳のとき出家して曹洞宗の僧となった。武士の血を受け意志剛直な彼は血の出るような猛烈な修行を積み、20歳ごろからは天下の名師を訪ねて諸国を遍歴した。

その中には宗門改革の大立物卍山(まんざん)道白、不生祥をとなえた臨済宗の日本的傑僧・槃珪永琢(ばんけいようたく)がいる。

たゆみない研鑚の末、禅匠として大成した即現の目に映ったのは、高祖道元禅師の正法相続の衰えだった。特に法の相続は当然、師匠から弟子へと伝えられてこそ、正法を一器の水を一器へ移すように伝えられるのに、当時は伽藍(からん=寺)相続といって、師匠ではなく、住職となった寺院の系統を継ぐというようになっていた。そのため法が乱れ、宗門も僧は正法相続よりも、良い寺に入ろうという出世主義に陥り、このままでは道元禅師が中国から伝えた正法の仏法が滅びかねない状態にあった。

宗統復古を叫び、宗門改革を唱えたのが卍山や独庵玄光たちであった。即現はただちにこの両師に呼応して立ち上がり、勇猛果敢に改新運動を推進した。江戸の寺社奉行に直訴したのも彼である。奉行所では彼の並々ならない熱情にほだされて、帳面にこのことを記した。これがのちに革新運動が大きく燃え上がるきっかけとなった。江戸市民も彼の無鉄砲ともいえる行動に目を見張り勇猛の獅子とか、バラモン即現とあだ名されるようになったという。

しかし、彼は宗門改革に望みを絶ち、ついに永平門下を去った。彼は下総に黄槃(おうばく)の鉄牛を訪ねた。このとき、火の出るような問答をしている。彼は「親指は長く、中指は短かし」といっている。これは表面の現象にとらわれず無相の実相を直指したもので、彼の実力を知ることができる。

加賀の大乗寺では密山(みっさん)と法戦(ほっせん)としている。密山は持っていた法子(ほっす)を即現に投げつけた。これは法をお前に与えるぞ、としたものか。これに対し彼は法などすでに持っているわい、与えられるものではない、との応答をし、ついに許されて法を継いでいる。

その後、即現は縁あって庄内に来て、松山町(現・酒田市)の総光寺の38世となり、大いに禅風を広めた。庄内400余寺の僧侶は即現の教えに従ったという。ここに3年いて、余目千河原(現・庄内町)の八幡神社の傍らにある小庵に隠退した。彼はこの庵を「兎三窟」と名付けた。兎は3回飛び跳ねて穴に入るというのにちなんだもの。ここからは鳥海山がよく見え、彼はこの地を好んだらしく、鶴岡で亡くなるときにここに葬るよう遺言していた。

(筆者・田村 寛三 氏/1989年7月掲載)
※原稿中の地名や年などは紙面掲載当時のものです。

プロフィール

徳峰 即現 (とくほう・そくげん)

寛文元年江戸武蔵小石川で布施某の子として生まれる。安房富川山長安寺の冠海和尚のもとで剃髪染衣(せんね)する。卍山道白の法の弟子にあたり、加賀大乗寺密山道顕の法を継いだ。卍山、玄光と共に宗門改革に立ち上がる。いわゆる宗統復古運動の勇猛果敢な獅子と称される。後に庄内に来て櫛引町(現・鶴岡市)の吉祥寺、松山総光寺、余目千河原禅律院(兎三窟)、さらに鶴岡市の庵に寓居し、同庵で延享4年8月、八十余歳で死去した。

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