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郷土の先人・先覚159 花咲かせた若き政治家

島田良三(嘉永5-明治31年)

島田良三氏の写真

吉田、上野曽根、鶴田、刈穂、安田、吉田新田の6カ村が合併して、上田村(現・酒田市)が誕生した明治22年に、38歳の島田良三が初代村長となり、死去までの約10年間その職を遂行した。

祖父・辰治が自宅で寺子屋を開いていたことから若くして学を修め、明治7年7月、酒田県より小学校仮教師、吉田学校勤務を命じられ、月給3円を支給されている。同10年大島田村(現・酒田市八幡地区)にあった島田学校に転じ、四等授業生になる。同12年には五等准訓導となるが、翌年教員の職を退いている。同14年に飽海郡役所より学校世話掛に、翌年には学校事務係に任命されている。

政治も志し、明治14年6月には30歳にして、222票の投票数で飽海郡選出の山形県会議員に当選している。同年、安田村村会議員に、翌15年には飽海郡全町村連合会議員に当選、その後も連続して村会議員、連合会議員に当選している。

良三は水利関係にも尽力し、明治20年に日向川水利土功会が開設されると、その第1回議員となり、同21年には日向川区域総代、同25年に五台堤普通水利組合総代人や新井田川水害予防組合総代人に当選。さらに荒瀬平田両止溝普通水利組合総代人として活躍している。

地域の振興のためには明治18年に鉄道株募集委員、翌年飽海郡勧業会員になっている。島田小学校建築費に25円を寄付、困窮者に米を施与するなどで、県知事より度々表彰を受けている。

良三は自由民権運動にも関心が深かった。酒田の森藤右衛門が社長であった両羽新報が、政府批判で明治16年発行禁止となると、ただちに両羽日々新聞発行が計画され、株主会議が森宅で開かれた際、民権運動家・高橋直勝らと参加している。民権拡張を唱えて共興社を創立、衆議院議員にもなった余目村の斎藤良輔は、明治23年荘内会を組織しているが、民権運動家の鳥海時雨郎らとともに、良三もその会員となっている。

良三の祖父の辰治は下安田久美の大組頭を勤め、人望が厚く、寺小屋を開いて多くの子弟を教育したことなどで、慶応2年門人が功績碑を建てている。良三の子の清作も上田村村長となり、小作運動の高まりの中で、地主側の立場から農事協会を組織している。

良三は明治15年に、人として貴いものは、父では慈、子では孝、兄では愛、弟では恭、夫は和、婦は柔、朋友は信、君では仁であるという「末子家訓」を雪江の名で書き残している。

(筆者・須藤 良弘 氏/1989年7月掲載)
※原稿中の地名や年などは紙面掲載当時のものです。

プロフィール

島田 良三 (しまだ・りょうぞう)

地方政治家。先祖は上野国安中の出で、姓は安中を称していたが、後に遠州島田に移り島田姓に改称。酒井家庄内入部時に当地に来住と伝えられている。嘉永5年、島田勇吉の一人っ子として下安田村に生まれる。島田家12代目。物静かで温厚な性格であり、趣味も広く、特に書や句、和歌、漢詩に優れ、島田雪江、まさゑなどの雅号を用いて書や歌を残している。酒田米屋町組の大庄屋であった野附彰常や、西荒瀬村藤塚の大川周明の生家とは親類であった。明治31年11月に47歳で亡くなった。

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