初代辻彦左衛門が享保13年(1738)に没しているので、約270年も前にさかのぼることになる。辻順治先生は明治15年6月30日に父・吉貞、母・豊世の長男(9代目)として生まれた。
ちなみに6代目・宣右エ門は、文政10年(1827)より荘内藩校致道館助教授、郡奉行。弘化元年(1844)に松山藩家老、後に大山騒動に関連し解任されたが、剛骨にして留守役大山庄太夫事件の端を発した。書に長じ致道館「孝経」を記す。その子庄一郎(7代目)は供頭より使番に任ぜられ、江戸斎藤弥九郎に剣を学び、師範代を務めた。木戸孝允を交友とし、白鞆朱鞆の長刀を帯す。後に国事に奔走し、明治2年(1869)芝山内にて幕府の凶刃に遭い亡くなった。
辻先生には姉1人、弟1人がいた。明治15年といえば日本は、経済史上で一番の不況時代であった。辻先生の生家は士族だが、不景気の余波で尋常高等小学校高等科4年を明治29年(1896)に卒業すると、前森恒治校長(2代目)のときに臨時教員として、翌年7月より32年3月まで同校に奉職した。
明治43年(1910)ロンドンでは「日英同盟記念親善博覧会」が開催された。これはタイトルが示すごとく、明治35年(1902)に締結され、この年に改訂された日英同盟を記念した親善博覧会で、当時の日本政府も大いに力を入れ、またわが国の産業界からも多く出展している。この博覧会の開催期間中にイギリス政府より日本政府に陸軍軍楽隊の派遣要請を求めてきたのは、明治42年の暮れのことである。軍楽隊創設以来はじめて陸軍軍楽隊が、親善使節として海外演奏を行うことは、軍楽隊の歴史にとって、まさに画期的な出来事といえる。
さっそく派遣隊の編成に着手、それによると陸軍軍楽隊、軍楽生徒隊より18名、各師団軍楽隊のなかから業務の妨げにならない範囲でベテランの隊員を選抜して、楽長以下35名派遣と決まった。
楽長は第6代永井建子(明治39~大正4年楽長)であった。
明治43年3月16日に常陸丸で横浜を出帆し、フランスを経由して5月ロンドン到着。同年10月に加賀丸でロンドンを出発し、12月6日に横浜に帰ってきた。
辻順治先生が陸軍戸山学校軍楽隊員となってちょうど10年目に、思いもかけず時の農商務省から英国に派遣される光栄に浴した。弱冠29歳にしての好機である。辻さんは常々よくこの話をし、山形県の寒村に生まれてこの光栄は、生涯の感激であったらしく、この想いでを語っておられたようである。担当の楽器はテナーサキソフォンである。
日本交響楽祭の内容は次の通り。
以上のほか毎年秋季における陸軍大演習や、代々木における大観兵式には分列行進の先頭をうけて士気昂揚はもちろん、幾万を数える観衆と軍楽との宴合に計り知れない貢献をした。
辻順治先生の「大衆とともに生きる」ということは大衆に迎合するのではなく大衆の心をつかみ、大衆と軍楽隊とのつながりを強くする点であったろうと思う。
ここにひとつのエピソードがある。山口常光著(陸軍第15代楽長)「陸軍軍楽隊史」の中で「後日談-一古老の感激」と題して次のことを紹介している。
それはたしか辻順治楽長(昭和2年5月~7年7月)のころであったから昭和初期のことだと思う。それは佐賀県を中心に陸軍大演習が筑紫平野一帯に繰り広げられ、私たち軍楽隊もそれに参加し、そのなかで武雄温泉町の広場で野外演奏会を開催したときのことである。
町をあげての歓迎で軍楽隊員の意気も大いにあがり、演奏もスムーズに進行しているときだった。突然、聴衆の中からかれこれ80歳にもなろうかと思われる、貧しい身なりの老人が立ち上がり、奇声をあげて九州弁でわめきたてたのである。おどろいたのは聴衆だけでなく、音楽隊員たちもあっけにとられて演奏を止め、この気狂い老人を見詰める始末。やがて憲兵や巡査が、おっとり刀で駆けつけて、この老人を拉致しようとする。わめきたてる老人の声が遠くなり、再び演奏がはじめられたが、人々の昂奮はなかなか静まらなかった。
そのうち憲兵の責任者が辻楽長に耳打ちしている。うなずいた楽長は1曲終わった後で、おもむろに、かの気狂い?と思われた老人を聴衆に紹介したので、はじめて彼の突飛な言動が納得されたのだった。実はこの古老は西南の役の熊本城で生き残った鎮台兵の1人で、あの感激的な軍楽隊の入城を目の当たりに経験した人だったのである。
辻楽長に促されて指揮台に立ったこの老人は、緊張と感激と往時の回想とで胸がいっぱいになったのか声もとぎれ、体をふるわせながら、しかし、胸を張って絶叫したあのことばがいつまでも忘れられない。
「おどんはもう死んでもよか。こんなりっぱな軍楽隊の演奏ば聞いたけん。ばってん(しかし)西郷どんの戦でお城に入城した軍楽隊は、実に立派でごわしたぞ。こんなよか洋服を着んで、人間も少のうごわした。ばってん、とてもよかったですたい」。
辻楽長が後日に話されたことによると、「僕はあの老人をみて、これは狂人じゃないと直感。その人の貴重な体験談をぜひ並居る聴衆に紹介することが、私の役目だと直感したんです。軍楽隊は孤立するべきでない。大衆の心を心とし大衆とともにあれ、これが私の和だ」と何気なく話してくれたことを想い出すと山口常光氏は述懐しておられる。
この言葉こそ辻順治先生の大衆とともに生きる言葉でありましょう。
「進軍」(児玉花外作詞・昭和4年作)をはじめ、昭和7年5月作の「爆弾三勇士」(与謝野寛作詞)はこの年の第9回選抜野球大会で、入場行進曲としても演奏された。
「工兵の歌」(陸士第52期生合作・同12年作)、「上海派遣軍の歌」(上海派遣軍司令部作・同13年作)、「愛国機」(佐藤惣之助作詞・同18年作)などがある。
前「鶴岡市民歌」(沢谷長太郎作詞、昭和8年作)や酒田市民歌「酒田行進曲」(山口喜市=現・佐藤=作詞)、「藤島農学校(庄内農業高校)校歌」(土井晩翠作詞・同8年9月作)、「加茂小学校校歌」(斎藤重盛作詞・同9年作)がある。加茂小校歌は、加茂で医師として活躍し、昨年亡くなった斎藤正太郎先生の先代、斎藤重盛さんの作詞である。作曲は当時の加茂小学校の校長・辻武松先生(大正14年3月より昭和13年3月まで勤務)の従兄弟である辻順治先生である。
明治15年6月30日士族旧大泉藩辻吉貞の長男(辻家9代目)として鶴岡町(市)家中新町7番地に誕生。同21年鶴岡尋常高等小学校に入学、同23年大山尋常高等小学校に転校し、同29年4月同校を卒業。30年同校臨時教員、31年同校授業傭(教員)となる。32年3月辞職し、明治33年陸軍戸山学校軍楽隊に入隊した。当時19歳。明治43年3月16日より12月6日まで、遺英陸軍軍楽隊員として派英(担当楽器・テナーサキソフォン)。昭和2年5月8日陸軍戸山学校軍楽隊隊長(楽長)に就任(第11代・軍楽大尉・46歳)、7年7月1日に停年退官(50歳)した。退任後ポリドール吹込所長、ビクター洋楽部長を歴任し、終戦直前の20年4月13日、享年64歳で病死した。菩提寺は鶴岡市大東町の本鏡寺楽聖院義勇日順居士。