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郷土の先人・先覚162 言語差別に真っ向批判

斎藤秀一(明治41-昭和15年)

斎藤秀一氏の写真

「自由に飛び回れる蝶々はいいなあ」

秋田刑務所の独房の小さな窓から外を眺めながら秀一はつぶやいた。そのとき看守が見回りに来て足を止め、「日本が戦争をしているとき、言語の改革などという夢は捨て、早く家へ帰らせてもらえよ」と、からかうように言った。しかし、秀一は自分の主張を曲げ、心を売り渡す気にはならなかった。

斎藤秀一は1908(明治41)年12月24日、東田川郡山添村(現・鶴岡市櫛引地区)字東荒屋、泉流寺の長男に生まれた。父・秀苗、母・たみえであった。秀一は鶴岡中学(現・鶴岡南高校)から駒沢大学東洋文学科に学んだ。31(昭和6)年卒業と同時に朝日村大泉小学校の教師となり、大平や八久和などの分校に勤務した。秀一は軍国主義教育に批判的で、次のような行分け短歌を作っている。

  • 「二○ページ ヲ ヒラキナサイ」
  • ヒトゴロシ
  • チュウギ ト オシエル
  • ココロ ワ クライ

また、子どもたちや村の青年にローマ字を教えたことなどから鶴岡警察署に検挙された。4日後に釈放されたが、教師は免職となった。

その後、秀一は自宅を発行所に「文字と言語」という極めて高度な専門誌を発行し続けた。東條操、石黒修、高倉テルなど日本の第一級の言語学者たちが原稿を寄せている。秀一は、荘内方言についての研究論文を数多く発表したほか、朝鮮、台湾などに、民族語の使用を禁止した日本帝国主義の言語政策を厳しく批判した。また、全文エスペラント語の「ラティニーゴ」という雑誌も自分の手でつくり、中国の魯迅や葉籟士らと交流し合った。平和主義的エスペランティストとしの斎藤秀一は、中国にあって反戦抗日を主張し続けた有名な長谷川テルと匹敵する、高い評価を得るにふさわしい人物であった。

そうした活動が治安維持法に引っ掛かり、1938(昭和13)年に山形県特高課の手によって3度目の検挙、予審の決定によって秋田刑務所に服役する。差し入れられて飲んだ薬の包み紙に、秀一はローマ字で針を使って非転向の心境を書き綴っていたのである。

やがて肺結核に犯される。治癒が絶望となって帰宅を許されたが、数カ月後腹膜炎を併発して1940(昭和15)年9月5日、32年の短い生涯を終えた。子供のころ、虫も殺せないほど大人しい子供だったといわれる秀一が、民衆の立場から大日本帝国の言語差別政策に真正面から戦いを挑み、ついに力尽きたのである。

(筆者・佐藤 治助 氏/1989年8月掲載)
※原稿中の地名や年などは紙面掲載当時のものです。

プロフィール

斎藤 秀一 (さいとう・ひでかつ)

東田川郡山添村(現・鶴岡市櫛引地区)の曹洞宗泉流寺に生まれる。鶴岡中学から駒沢大学に学ぶ。在学中、日本エスペラント学会、カナ文字会の会員となる。また、秋田雨雀らのソビエトの会にも入会する。大学卒業と同時に朝日村大泉小学校の教師に。一年半後、赤化教員の疑いで逮捕され、免職となった。その後、自宅で執筆活動を展開、雑誌発行のほか『東京方言集』など自費出版する。一時、東北帝国大学の図書館に勤務するが検挙され、秋田刑務所に服役。昭和15年秋、病気で死去した。

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