明治中ごろから、大正・昭和にかけて酒田は手工業が盛んであった。江戸時代は船箪笥の本場といわれたほどで、とりわけ木工業が活況を呈し、多くの名工名匠が生まれ、家具類などの文化的水準を高めている。鉄砲屋浅吉、斎藤兼吉などの名工がそれである。
だが、もう一人忘れてはならない名工に土田龍八がいる。龍八は鉄砲屋と同年代ごろに活躍、兼吉とは少し年代が離れているが、ともに名人指物師といわれた人物である。
竜八は明治2(1870)年、新潟県岩船郡村上町に生まれ、父は山形仁蔵といい、幼いころ土田家に養子となった。その後、わずか11歳で須田彌吉郎という指物師に弟子入りし、夜は風呂屋の三助を勤め、刻苦勉励して技術を習得した。やがて年期があけたが、その後の師匠の下で技を磨こうと願ったが許されず、曲尺一丁を持って旅に出たという。
それからは諸国を回り、大工職、建具職、鍛冶職、漆工芸、ミシン裁縫など目に触れる手仕事を自分のものとした。今では成人にも達しない少年のころである。恐るべき天才児であった。酒田に来たのが、明治23(1890)年21歳のときである。
しかし、本命は本格的に学んだ指物であるが、諸技能を身につけた生涯は決してプラスだけではなかったろう。思えばこれだけの天才児が年期あけ後も師匠の下で技量を学んだならば、名匠としてもっと名を高めたことであろう。
当時、名工には後援者がついていた。鉄砲屋には7代目伊藤四郎右衛門、兼吉には青塚の青山米吉、龍八には先々代荒木彦助などで、いずれも地方での素封家である。ほかに荒木彦助などで、ほかに荒木彦助の紹介で、東京の実業家・渋沢栄一、米商・山崎種二の愛顧を受けたという。
また、河瀬屋(かわせや)を屋号として、漆器木工業で名を成した酒田の圓山卯吉も龍八の技術を高く評価して面倒をみている。
代表的な作品の「かんざし箱」については、伊藤珍太郎著『酒田の名工名匠』の中で、「わたしの見た数ある龍八の作品中最高峰に位する」と書いている。次も同著の中にある面白い記事で、簡単に要約すると、本間家八代目光弥が、立行司木村庄之助に贈った軍配も龍八の作で、材質は渦巻状の玉もく八十八個が扇面上に散らばっている欅(けやき)で、表には犬貝木堂の書があるという。本間家でもこの軍配に満足し、代金のほかに龍が体を丸めた円の中に、八の字を置いた意匠の作品に押す刻印を与えており、龍八の名にぴったりの印である。 昭和14(1939)年11月、70歳で亡くなった。
指物師。明治2年、新潟県の村上市に生まれた。土田家の養子に。11歳で須田彌吉郎に弟子入りし、指物技術を習得した。年期あけと共に、諸国を回って大工、建具、鍛冶、漆工芸、ミシン裁縫など手仕事を習い、21歳のとき酒田に移住した。徒弟養成の指導に当たるほか、指物工場を自営した。酒田で木工業が盛んだった明治から昭和にかけての名工の1人であり、酒田の指物業界に大きく貢献した。昭和14年、70歳で亡くなった。