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郷土の先人・先覚165 太陽の研究に生涯を捧げる

野附誠夫(明治32-昭和62年)

酒田米屋町組の大庄屋10代・野附彰常のことはすでに本欄(先人先覚101)で紹介されている。野附家11代の友三郎は彰常の三男で、若い時には自由民権運動に尽力した熱血漢である。

この友三郎の長男・勤一郎は東大採鉱治金科を卒業し戦前、中国などの鉱業開発に功績があった。二男・雄二郎は物理学を専攻し、北海道大学や日本大学の教授となった。長女・信子の長男の瑞雄(みずお)は東北工業大学学長である。

誠夫は友三郎の弟・常雄の長男として生まれた。大正14年東大理学部天文学科を卒業してすぐに東京天文台に入り、昭和24年理学博士。その後、東大教授、東京天文台物理部長、乗鞍コロナ観測所長、日本天文学会理事長などの要職を歴任した。いわば我が国の天文学の最高権威者であるといえよう。

このようにわずか2世代の間に4人もの素晴らしい科学者が出たことは驚異であり、松山地区の哲学者・阿部次郎の兄弟や、立川地区の石川3博士兄弟をしのばせる。

特に商業都市酒田から、およそ俗社会の経済観念や利害の打算を超えた、現実離れした純粋の天文学者を生んだことは極めて興味深い。昔から人間世界の俗事に疎い人を天文学者みたいだというが、誠夫はまさにその典型のような人物だった。世界的に有名なZ項(ぜっとこう=緯度観測上の画期的発見)の発見者・木村栄理学博士は、岩手県水沢の観測所にこもって、日露戦争の始終を知らなかったと今や伝説的存在になっているが、誠夫もまたそれに劣らない世間知らずであったという。

非常に大人しく、朝から晩まで天体望遠鏡をのぞいて飽きないという、ゆったり屋のくせに、すごくせっかちであったらしい。

唯一の趣味は釣りで、海や川に一人悠々と釣り糸を垂れるのを何よりの楽しみとした。

誠夫は天文学の中でも太陽の研究に生涯を捧げた。ここで彼の太陽談義に耳を傾けよう。

地上の生命のすべては無限に降り注ぐ太陽の光によって維持されているが、今だに謎の部分が多い。ただ明らかになっていることは、数十億年前の原始太陽は巨大な冷たいガス級で、光を発していなかった。それが太陽自体の重力によって収縮作用を起こし、熱を発するようになった。そして明るい赤色に輝き始め、その内部が原子核反応に必要な温度に達すると原子エネルギー源に点火され、その後に現在の状態に安定したものという。

(筆者・田村 寛三 氏/1989年9月掲載)
※原稿中の地名や年などは紙面掲載当時のものです。

プロフィール

野附 誠夫 (のづけ・まさお)

天文学者・太陽研究家。明治32年10月7日、野附常夫の長男として酒田市に生まれる。大正14年東大理学部天文学科卒、東京天文台入所。昭和24年理学博士。天体、宇宙の現象に人知、科学のメスを入れる“天文”の専攻学徒として生涯を捧げた。長年、三鷹市大沢の東京天文台の官舎に居住した。昭和62年3月、87歳で死去した。

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