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郷土の先人・先覚166 草相撲の雄 気風も良く

月見崎権三郎(生没年不詳)

戦前、山居倉庫の女丁持(ちょうもち)は5俵もの米俵を背負い、日本一の力持ちと全国に喧伝された。しかし、この女丁持は山居倉庫ができてからのことらしく、江戸時代の史料には出てこない。

米都酒田湊の繁栄を支えた裏方に、米を主とする荷物の輸送や積み下ろしに従事した丁持たちがいる。おそらく絶頂期には1000人以上もの丁持がいたものと推測される。彼等は常に米俵を持ち運んでいるため腕力が強くなり、いつしか力自慢を競うようになった。暇さえあれば相撲をとって興じていたことであろう。それが高じてついには草相撲を編成し、秋田までも遠征興行するまでに至った。その中から江戸で大関となった鞍馬山のような名力士も出たのである。

幕末に活躍した月見崎権三郎はそうした酒田草相撲界の中でも最も華々しい存在であり、その名前は永く語り継がれている。

月見崎は平田町の生まれである。酒田相生町の正徳寺に明治4年に建てられた石碑があるが享年が書かれていないので、何年に生まれたかは分からない。仮に60歳とすれば文化8年に生まれたことになる。

若いころから酒田の廻船問屋に丁持として奉公しているうち、持ち前の腕力を発揮してめきめきと頭角を現した。彼は5尺(約151センチメートル)そこそこの小兵力士であったが、腰を下に構えると突かれても押されてもびくともしなかった。得意技は相手を下に突いての突き出しだった。そこで月(突)見崎の四股名(しこな)が生まれた。また、小さいので相手をちょうど月を見上げるような格好になることからつけられたという説もある。

瞬く間に酒田相撲の横綱となり、その名声を近隣に響かせた。彼は力だけでなく度胸もあり、気風も良く、義侠心に富んでいた。頭も切れたことから次第に彼を慕うものが集まり、親分といわれるようになった。

晩年には高野ノ浜で丁持などの口入れ稼業をはじめ出入りの手下200人と称された。同時に高野浜遊郭に喜鶴楼を営んだ。「亀ケ崎足軽目付御用帳」によると明治元年7月7日、彼は当分の間大浜へ郷中若勢どもの相撲稽古場をたてたい旨願い出ている。

同年の戊辰戦争では子分を率いて各地の激戦に参加した。庄内藩が降伏すると、彼は新井田蔵に入っていた米をどこかへ運び出し、その責任を取って一時北海道へ身を隠した。

彼が亡くなると、門人たちは日和山から高野ノ浜遊郭に至る道の傍らに自然石の碑を立てたという。

(筆者・田村 寛三 氏/1989年9月掲載)
※原稿中の地名や年などは紙面掲載当時のものです。

プロフィール

月見崎 権三郎 (つきみざき・ごんさぶろう)

幕末のころ、平田町田沢に生まれる。小さいころから力が強かったので、14、15歳ころ、酒田の廻船問屋に丁持として奉公する。丁持仲間を主とする草相撲界に入り、めきめきと頭角を現し、花形力士としてもてはやされた。晩年は高野浜に遊郭を営むほか、人入れ稼業をし子分200人と称された。

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