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郷土の先人・先覚167 鶴岡が生んだ剣道界の重鎮

佐藤忠三(明治31-昭和51年)

佐藤忠三氏の写真

佐藤忠三は庄内藩校・旧致道館のあった鶴岡市宝町の旧家の二男として明治31年に生まれた。若いころは講武館や荘内中学校で、藩の剣道師範・鈴木重臣教士や宮村利貞教士に学んで頭角を現した。やがて日本一の剣道家を志して京都武道専門学校に学ぶ。京都では血のにじむような荒稽古の中に、剣聖と仰がれた内藤高治(たかはる)教授の薫陶を受け、首席で卒業すると共に同校の助手に迎えられ、やがて助教授・教授となり20余年の間、全国の剣道家を養成する重鎮となった。また、武徳会の最高幹部としても剣道界の総元締めの立場にあった。

日本剣道形(かた)は各流派の極意をまとめて大正元年に制定されたものであるが、昭和8年に増補加注され日本剣道形として姿を整え、形の意味を解説されたのである。その事業をやり遂げたのが佐藤忠三で、剣聖の名を高めたのである。

また、後輩の指導に熱心で、最高位の範士の称号を受けている方々の大半が佐藤忠三の薫陶を受けたと言っても過言ではない。

戦後、剣道は一時禁止されたが、昭和28年に復興すると共に、請われて仙台市の東北管区警察学校に就職し、以後20余年、範士9段という位置にあって、東北・北海道の地に剣道を興隆した。  次に佐藤忠三の逸話を紹介する。

▽「洋服を着ない和服の剣道家」佐藤忠三は、生涯を通じて洋服を着ることがなかった。京都の街を颯爽と羽織袴で歩く和装の剣道範士は、古都京の都の一風物詩でもあった。

▽「走ることのない先生」武道専門学校は学生を連れて武者修行に出る。その折、汽車に遅れそうになっても悠々と歩いていたという。学生がにわか雨の中走って行くと、「おい君!むこうも降っているよ」と言って濡れて歩いていった。佐藤忠三先生の走る姿を見た者は学校の中では1人もいなかった。

▽「物を持つのが嫌い」戦後住み慣れた京都から鶴岡に帰る時、見送りにきた剣道の友人が「奥さんは背中一杯に荷物を担いでおられるのに、ご自分は手ぶらで、腰に尺八一管ぶら下げているだけ、先生らしい情景だ」などと語っていたという。

▽「夜中の素振り」毎日の血のにじむような荒稽古が終わって、ようやく人の寝静まるころ、暗闇の道場に唯一人、素っ裸で素振りをやる学生がいた。これが後の剣聖・佐藤忠三の若いころであったと武道専門学校の語り草となった。しかし、年老いても素振りを続け、私の一生は「素振りの生涯」であったと佐藤忠三は述懐している。

(筆者・斎藤 信作 氏/1989年9月掲載)
※原稿中の地名や年などは紙面掲載当時のものです。

プロフィール

佐藤 忠三 (さとう・ちゅうぞう)

武道家。明治31年12月25日生まれ。旧制荘内中学、日本武徳会武道専門学校を卒業。同校助手、助教授を経て昭和5年剣道教士号を受けて教授。同15年、皇紀2600年奉祝天覧試合の選手候補になったが、実父の服忌中だったので辞退した。戦後、一時期剣道が禁止されたので退職して帰郷。剣道復活によって同28年範士、東北管区警察学校剣道教授、41年まで在任。剣道界の重鎮だった。昭和51年6月20日、77歳で亡くなった。

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