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郷土の先人・先覚171 農村振興に幅広く貢献

堀熊太郎(文久元-昭和3年)

堀熊太郎氏の写真

酒田市熊手島に立派な胸像が建立されている。自治功労者であり、また農村振興に多く貢献した堀熊太郎を称えた像である。

熊太郎は飽海郡熊手島村(後の中平田村、現・酒田市)の素封家、堀半四郎の長男として文久元(1861)年5月に生まれている。諱(いみな=実名)は正範、通称・熊太郎で、範堂(はんどう)と号した。

幼少のころから勉学に励み、長ずるに及んで二宮尊徳を崇拝して勧農に意を注ぎ、明治17(1884)年、弱冠24歳で大町溝水利土工会議員に挙げられ、翌18年には飽海郡内連合町村議員となり、時の郡長・相良守典の委嘱で議長を数回務めている。その後、県、郡農会、水利組合、中平田村議などを歴任して活躍している。同24年には稲作改良功労者として県の表彰を受け、後に県会議員となる。

その数多い実績の中で、熊太郎が生涯をかけた大事業は耕地整理と水利事業であった。明治41(1908)年、庄内三郡農事協議会員に推され、農家経営革新を叫び、その実行を促す。そのころ、農村の重要課題であった耕地整理では常務理事となってその手腕を発揮、同43年には水利組合議員として、水源の拡充と配水の整備を図り、組合揚水所長を委託されて、開田600有余ヘクタールの給水に粉骨砕身、その達成に努力している。

大正14年10月12日、東宮殿下(昭和天皇)が山形県においでになられた折、熊太郎が招かれて、お目にかかる光栄に浴している。

ところが熊太郎が67歳の時、重病に罹った。そのころ、大町溝水利組合で揚水所設立の議が起こり、彼が出なければ問題解決が困難な状況となり、病を押して県に赴き目的を達成している。 昭和3(1928)年に68歳で亡くなった。

村民はその功績を不朽に伝えることを決議して、昭和9(1934)年、熊手島公会堂前に胸像を建立している。

製作は吉田久継、篆額(てんがく)は農学博士・山田玄太郎、撰文と書は縁戚に当たる荘司修理之助があたり、総工費6800余円、式典の参列者は村民、招待者合わせて1000余名という。

除幕式に当たって当時の小松村長は「“徳孤(とくはこ)ならず”誠に翁の如き人傑が出てこそ味わいある言葉であることを痛感せられるのであります」と郷土の先覚者を称えている。

だが、昭和18年この胸像も太平洋戦争の犠牲となったが、戦後遺徳を偲ぶ再建の議が起こり、前の製作者・吉田久継の製作で見事に完成し、昭和46(1971)年除幕式典が行われている。

(筆者・荘司 芳雄 氏/1989年10月掲載)
※原稿中の地名や年などは紙面掲載当時のものです。

プロフィール

堀 熊太郎 (ほり・くまたろう)

地方自治功労者。酒田市熊手島の生まれ。明治17年大町溝水利土工会議員になり、飽海郡内連合町村議員、飽海郡農会、県農会、旧中平田村議を歴任して県会議員。耕地整理と水利の大事業に生涯をかけ、庄内三郡農事協議会員、水利組合議員などとして活躍、さらに産業組合を設立して組合長になった。自治功労者として国の表彰のほか、県からも特別功労者表彰を受け、昭和3年2月2日、68歳で亡くなった。

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